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同窓生・恩師からの手紙
鹿児島ラ・サール千葉会 講演会報告と所感 ―日本の林業政策と哲学―:中富 清和(12期)
東京同窓会にお招きいただいて:函館ラ・サール中学校高等学校教頭 男山克弘
谷口 巌 先生を訪ねました:金谷 誠一(4期)
「元禄時代と聖ラ・サール」:元副校長  石井 恭一
50周年記念行事に参加して:元教諭  海川 敏雄
聖ラ・サールの宗教哲学とその展開 ―日本哲学・教育の観点から-:千葉県立東金商業高等学校 社会科教諭 中富 清和(12期)
マルセル・プティ先生:ラ・サール学園(鹿児島)3期生 松木 實
寮生活と人格形成:酪農学園大学附属とわの森三愛高等学校副校長 黒畑勝男(15期)
報酬見直し提案に関するメディアの報道について考える:(財)北海道農業開発公社理事長  近藤光雄(3期)
8期生 金谷武洋くんが高1の担任だった津田洋行先生(明治大学文学部教授)の講義の中で特別講演を行う:野呂春樹(8期)
官民協働による「人の誘致」 ~「伊達ウェルシーランド構想」によるまちづくり~:伊達市長 菊谷秀吉(7期)
津田先生の短歌が朝日新聞に掲載:元教諭 中越 譲
民事裁判はなぜ時間がかかるのか:札幌高等裁判所民事第2部総括裁判官 末永 進(2期)
函館ラ・サール50周年に思う:協力会会長  ㈱五島軒 代表取締役社長 若山 直(2期)
柔道部W優勝の快挙!:函館ラ・サール学園柔道部顧問代行 寮教諭 佐々木義隆
大場清太郎先生の思い出:元教諭 海川敏雄
晴れて「高齢者」の弁:北海道新聞社代表取締役社長 菊池育夫(1期)
開校前後の思い出:元教諭 遊佐悦大
申八北米訪問使節団報告:とおやま酒店店主 遠山雅士(8期)
辻秀明さん(5期)がカンボジアで奉仕活動:管理人 島本

 

鹿児島ラ・サール千葉会 講演会報告と所感 ―日本の林業政策と哲学―

中富 清和(12期)
 
 2013年11月9日(土)鹿児島ラ・サール同窓会千葉会総会(千葉大学、けやき会館、レストラン・コルザ)が開催され、参加してきた。第一の目的は、講演会である。沼田正俊氏(林野庁長官、鹿児島23期・函館12期と同世代)による「地域の活力創造と森林・林業」である。講演情報は、7期岡田利雄氏、10期久道篤志氏による。日本の農業と同様、林業も衰退の状況にあるが、今後どうすべきか、行政からの提言である。この講演要旨は次のようである。
Ⅰ森と日本人の関わり
 森林の利用。我が国では古来から、建築、生活用品、薪炭など様々な用途に木材は利用されてきた。味噌樽、酒樽、法隆寺、伊勢神宮、茶の湯炭など幅広く、かつ、日本人の生活、文化に深く根ざしている。しかし、江戸時代の乱伐により森林資源は減少した。明治~第二次世界大戦後も森林の荒廃が継続した。こうした状況から森林の回復が目指され、昭和24年「挙国造林に関する決議」、翌年、第1回植樹祭が開催された。伐採跡地への植林、拡大造林が進展した。平成以降も様々な森林、林業促進の法律が制定、改訂された。
Ⅱ我が国の森林・林業の現状
 我が国の森林の姿として、日本は世界有数の森林国である。国面積に占める森林面積の割合(森林率)は、68,5%で、これはフインランド、スウエーデンに次ぐ世界第3位である。これは国土の三分の二が森林に覆われていることを意味し、正に、緑の国である。砂漠が大半の国もあることを考えれば、極めて恵まれている。森林の蓄積は約49億㎥。1年間に増加する森林の量は、約1億㎥で、すべてを使っても日本の森林は今の豊かさを保つことができる。その量は、100m×100mの板で換算すると、富士山の3倍の高さになる。最低限、この量は使用しないと、逆に、森林が多すぎてしまう。使用しなくても、手入れ、間伐をしないと、森林とその下に生息する植物の異常繁殖で、森林自体が虚弱化『もやし』になり、山全体の森林が死滅する。庭園と同様、森林も手入れが必要である。木材の需要量は減少傾向、特に、平成21年世界的金融危機(リーマンショック)により急激な打ち込みがあった。しかし、徐徐に回復している。木材自給率は27,9%(平成24年)。問題は、林業経営体、生産性の現状で、小規模で、機械化が困難。生産性は、極めて低位な水準である。しかし、白神山地、知床、白山、富士山、屋久島など世界遺産と関わるものが多々ある。森林、林業は文化に関わる貴重財産である。
Ⅲ林業の成長産業化(国産材利用を目指して)
 厳しい状況を鑑みて、政府は成長戦略を提示している。
・日本再興戦略(平成25年8月14日閣議決定)(抜粋)
  テーマ:世界を惹きつける地域資源で稼ぐ地域社会の実現
「新たな木材需要の創出や国産材の安定的・効率的な供給体制の構築、施業集約化等を進めるとともに、・・・、林業及び水産業の成長産業化を図る。」というものである。同日の閣議決定では長期的に持続可能な経済社会の基盤確保として、温室効果ガス排出削減・吸収に貢献するとしている。
 その具体策として、中高層建築への木材使用、公共施設などでの国産材利用である。技術革新で耐火性の向上、積層接着重厚パネル(クロス・ラミネイテド・テインバー)によりヨーロッパでは10階建ての木造建築が進でいるし、近年、国内でも公共施設、たとえば図書館、役所、保育所なども木材使用になってきている。コンクリートより耐火性があり(太い柱であれば1,000度でも表面が焦げるだけ)、人間にやさしいことによる。また、原木の安定供給には、効率的な作業システムの導入、それには、路線整備、林業専用道路の整備が不可欠である。高速道路の建設には、1mあたり、1億円の費用がかかるが、10トントラック1台が通れる専用道は、1mあたり数千円でできる。ドイツはこうした道路が計画的に敷設されて、効率を高めているが、我が国では、場当たり的で計画性が欠ける。故に、収益率も下がる。先を見据えた計画は必要である。  
 計画の遂行には、林業従事者の育成が肝要である。農業と同様、後継者不足であり、森林総合監理士(フォレスター)や森林経営計画技術者などの育成を通して、現場技能者を段階的に育成する。他の産業からの人々を集め、これは「緑の雇用」を生む。
Ⅳ森林吸収源対策
 森林は、光合成によりCO2を吸収し、酸素を供給する。地球温暖化の原因CO2を削減には、森林整備は重要な働きをなす。その森林整備事業の対策費として、石炭石油税と併せて、森林環境税の創設が必要となる。大枠として、「地球温暖化対策のための税」となろう。林業関係映画『WOOD JOB!~神去なあなあ日常~』2014年全国東宝系公開が紹介された。

 以上が要約であるが、沼田氏の温厚、柔和、誠実な性格から、終始、和やかな雰囲気であった。懇親会でも、多くの方と交流されていた。私事になるが筆者は、30年前、千葉市立稲毛高校で教えた二人の女子生徒のお父様、鹿児島2期池見清志氏(1)と感動的出会いを得た。また、若干の時間で昨年ドイツから刊行した本(2)を紹介したが、それを契機として、千葉大学の大学院生が博士論文をドイツから刊行したいとの申し出があった。小生の希望は、日本の若い人の論文を世界へ出したいことだが、夢をかなえてあげたい。こうした遭遇、交流から筆者も講演会、懇親会からかつての自分の論文を思い出した。
 森林・林業は、それ自体で存在するのでなく、そこに群生する他の植物、さらには、昆虫、動物と連鎖している。即ち生態系を形成する。この生態系において森林はCO2を吸収し、酸素を供給する。あるいは、動植物、人間をささえる。これは事物、生物の世界連関である。かつて筆者は、「進化と不進化―ベルクソンとファーブル―」(3)を日本フランス哲学会で講演したが(2008年、秋季シンポジウム、東京大学)、この最後を紹介したい。

「この立場から、ベルクソンとファーブルの探求は、いかなる意義を有するか?従来まで、日本のファーブル研究は、世界でも独自で、日本人の虫好き、即ち趣味的に理解されてきた。本国のフランスでは、日本ほどではないようだ。古来、日本人は虫好きで「鈴虫寺」があるように、虫の音と風のそよめきを好む、「風情」の民族と自称している。この虫好き、風情とは感情のレベルのものにとどまっていた。しかし、虫好きとは前述したように、ファーブルに象徴されるが、虫は、それを囲む環境と連関するものであって、植物、動物、水、土、大気、気温、天候、いわば自然全体と連関するものである。日本人の虫好きとは、虫に限定されるのではなく、自然全体に連関する。即ち、虫好きとは、虫、動物、植物、水、山、自然を好むことであって、それは、自然全体に流れる命、ベルクソンでいう「エラン・ヴィタール」、古代中国では「道」・「一」・「無」、インドでは「プラーナ」と呼ばれるものである。日本人の虫好きとは、自然、命の流れ、エラン愛好の精神であり、それは感情を超えて、自然の生命、実在との合一、即ち「直観」を意味する。従来からのヨーロッパ哲学では、この精神が明確に表現されなかった。この生命の愛好とは、日本人の直観力の鋭さを表すものであり、ファーブルの虫の生命の直観とつながる。日本人がファーブルを好む理由は、ここにある。単なる、虫好きの感情ではなく、「生命の直観」という哲学的根拠が存在したのである。この「生命の直観」は、ベルクソンの哲学そのものでもあり、ここに、ベルクソン、ファーブルが共通し、フランスという1国、さらにはヨーロッパを超えて、東洋の精神、哲学と結びつき、それはヨーロッパと東洋の橋となる。これは、学問、哲学の自由自在の往来を可能にし、東洋哲学とヨーロッパ哲学の総合の新地平を開く。」
<注>
(1) 池見氏は、英語に堪能で、中学生英語弁論大会で鹿児島県代表になられた。なお、鹿児島の1期生は、開校時に赴任した教員を慕って転校した30名の生徒である。それで、入試を受けて入学、卒業したのは2期生が最初の期生となる。筆者が教員になった33年前、当時、千葉市立稲毛高校の校長が「学校は、1期生、2期生で決まる。」とよく語っていたが、正に、事実で、池見氏一同、1、2期生がラ・サール高校の名を全国に高めたといえる。
(2) Kiyokazu Nakatomi, ”New Horizon of Sciences by the Principle of Nothingness and Love” Lambert Academic Publishing, Germany, 2012
(3) 『フランス哲学・思想研究 第14号』(日本フランス哲学会、2009)この英語版は、その後、オリンピア国際会議(アテネ大学)で発表、”New Horizon of Sciences”に収録されている。また、ポーランド語にも訳され、ポーランドから刊行された。サイトは次のようである。
Społeczeństwo i Edukacja (『社会と教育』)
Międzynarodowe Studia Humanistyczne
Nr 1/2009  Legnica 
‘Ewolucja czy nie-ewolucja?’(「進化と不進化」)
http://www.humanum.org.pl/studiahumanistyczne/wp-content/uploads/2013/07/SiE-2009-nr-1.pdf

参考までに、『日吉の丘』第12号に掲載された「聖ラ・サールの宗教哲学とその展開」
‘Philosophy of Religion of Saint John Baptist De La Salle and its Development’
英語版がインターネット掲載された。サイトは次のようである。
Społeczeństwo i Edukacja (『社会と教育』)
Międzynarodowe Studia Humanistyczne
Nr 2/2009  Legnica 
http://www.humanum.org.pl/studiahumanistyczne/wp-content/uploads/2013/07/SiE-2009-nr-2.pdf


 
2014年01月29日10時05分
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東京同窓会にお招きいただいて

函館ラ・サール中学校高等学校教頭 男山克弘
 
 総会では東京同窓会の充実した活動が連綿と続いていることを心から実感し、講演会・
演奏会では函館ラ・サール高校同窓会の多彩な個性の躍動を堪能しました。槇大輔さん、
小林裕さん、あがた森魚さん、お三方の比類ない才能は圧巻でした。       
 同窓会各位の大きく強いつながりを認識したのが懇親会です。6月16日のあの夜、あ
れほどの熱気を立ち上らせていた集いが他にもあったとは思えません。思いがけず、私が
直接教えた卒業生諸君にも会うことができました。私自身が初心を思い起こすとともに、
いま教えている在校生諸君の未来がここにあるという意識も生まれました。そして、私自
身が私の使命をあらためて教わったのだという印象があります。 
 私を東京同窓会にお招きくださった各位の意図を私なりに理解しています。この同窓会
の類例のない強く大きく豊かなつながりをこれからもさらにつないでゆくようにせよ。そ
ういう言葉が、いま私の心には刻まれています。

 
2012年07月03日08時41分
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谷口 巌 先生を訪ねました

金谷 誠一(4期)
 
 11年12月中旬に、私は瀬戸市の谷口巌先生のところに、訪問したい旨の電話をかけた。
「金谷君だね。…… じつは、知っていると思うけれど、僕はちょっと神経の病気でね…」
私が直接に谷口邸に伺うことになった。
 旅行日程が決まると、私はすぐに谷口先生に手紙を出した。①ラ・サール50周年のときの
4期生原稿等 ②三橋美智也・川内康範のプリント  ③3.11大地震、八戸の被害のようす
④詩集『ひと休みの空』以降の私の詩等も同封した。

 12月18日早朝、私は名古屋駅構内を歩いていた。地下鉄で名古屋駅から2つめの「栄町」
に行く。そこで名鉄瀬戸線に乗り換える。小一時間乗って、「新瀬戸」で降りた。私は、沿線
の景色を、街と郊外が交互に繰り返されるものと想像していたのだが、それは東北人の発想に
過ぎなかった。どこまで行っても街並みが続き、どこまでが名古屋市でどこからが瀬戸市なの
か区切りがつかない連続都市だったのである。駅に降りてから、谷口家を歩いて探してみるこ
とにした。駅前からバスで2つ目の停留所が「苗場」なのだが、そこから先は聞いた方が早い
と思い、谷口家に電話を入れた。「金谷君ね。僕の家はセブンイレブンの方が近いんです。西
松屋という子ども服の専門店があって、そこの坂を上って……。」どうにか谷口家にたどり着
くことができた。

 先生はひとまわり小さくなった感じだった。33年生まれというから78歳になられると思
うが、髪を短く整え、日に焼けて、笑顔が輝いていた。そう、昔のままに年をとった感じだっ
た。私たちは、およそ40年ぶりの再会だった。八戸〜瀬戸の距離を考えると思いひとしおの
ものがあった。これで時々の早口と尾張アクセントがそろえば、昔そのものだったが、そちら
の方はだいぶフラットになっていた。というより、私がほとんど一人でしゃべっていたような
ものだった。11年の秋のラ・サール50周年式典のことから、私は話し始めた。この件につ
いても手紙を送っていたので、話を端折って、先生に関わりの深い部分を中心に説明した。私
は、話の一文を短くし、大事なところは重ねて話すなど、職業病が出てしまっていたが、先生
はそんなことを気にせずに熱心に私の話を聞いてくれるのだった。私は話しながら、大学生の
頃に、先生から伊藤整の文学理論の講義を受けていた頃のことを思いだしていた。「文学」な
どという生産性のない学問のなかで、あの授業、あの理論は光っていたと思う。あの時分はた
くさんの未来があり、その未来が光っていたのかもしれない。
 式典の分科会の時間帯に、私は何か所かのぞき見をして歩いた。3か所目の分科会で私は腰
をすえた。講師の講演のあと質疑の時間が持たれた。私の真後ろの人が挙手して「1期の竹内
伝史ですが、〜」と質問をした。私はその名前に覚えがあった。以前、私の詩集の送付先を谷
口先生に相談したときに、そのリストに入っていた方だった。質疑応答が終わると、私はすぐ
に竹内さんに話しかけた。「4期の金谷ですが、竹内さんはたしか愛知県にお住まいですね。
谷口先生のことについてお聞きしたいのですが。」
 谷口先生が神経の病気であること、言葉がすぐに出てこないこと等を私は知ることができた。
私が、「訪ねていってもだいじょうぶでしょうか。」と言うと、彼は「だいじょうぶです。喜
んでくれると思いますよ。」との返事だった。
 夕方から懇親会だった。各期ごとにテーブルが用意されていた。私は、会が始まる前に、1
期の大 誠さんのテーブルに行った。私と大さんは、手紙のやりとりがかなりあり、八戸の函
館会の方にも共通の知人がいるので、複層的に情報の流れがあった。その時点で、竹内伝史さ
んはまだ来ていなかった。竹内さんから聞いた話の内容を大さんに伝えていると、谷口先生と
いう単語を聞きつけて、何人かが集まってきて私を囲んだ。「ガンさんがどうしたって?」
私は、竹内内容を繰り返した。
 式典のあいさつ部分が終わって歓談時間に入ると、1期生は一刻も早く自分たちの時間を持
ちたいらしく、移動の準備を始めた。私は、まだ加藤、林先生(ともに元学担)にあいさつを
していなかったので、あわててあいさつに行くと、1期生の一人が「これから加藤先生を(2
次会に)連れて行く。いいな。」と私に言った。「(良いも悪いも)1期生が言うのなら、誰
も逆らえないでしょう。」と私は苦笑いした。

 そういったことを、私は谷口先生に報告したのである。「あの頃はぼくの名前から、ガンさ
んと呼ばれていたんだよね。」と谷口先生は懐かしそうだった。
 それから、私が直接に会ったラ・サールの先生たちの話になった。私は自身が国語教師をし
ていた関係で、おもに海川、津田先生の話をしたが、加藤、金井、鈴木n、鈴木s、野本、村
本等の先生方も話題になった。
 三橋美智也についても軽く説明をした。「なぜ金谷美智也の時代があるのですか?」「実父
が上磯町の落盤事故で亡くなってから、実母が金谷氏と再婚したからです。」「青森に記念館
があるとか……」谷口先生は三橋プリントをさっとしか読んでいないようだった。本筋の話で
もないので、私もすぐに切り上げた。
 私は、函館の街のようすを説明した。松風町の飲食店街が1/3ほどになったこと、観光客
は訪れてはいるが、これといった産業のない函館はやはり不景気で、全体として、静かな街に
なったことなどを話した。ラ・サールのレベルについて「今はどうなの?」と質問をしてくる。
私は、北海道の公立高校が大学区制になったことが直接の原因で、今は昔ほどの勢いがないこ
とを話した。先生は何も言わなかった。私は、それでもいいんですよ、私たちが学んだのは昭
和40年代の時代でした、と過去形で言った。静かになった函館の町に風格が出たように、時
間を経たラサールもやがて違った見方がされるだろうという思いが、私にはあった。
 あとは雑談になっていた。先生が、たまに庭いじりをすることもあるが、長いことやってい
ると体がしびれてくるなどと話した。2時間近くもおしゃべりしていたことに気づいて、私が、
そろそろ帰りますと言うと、私の子どもについて質問をしてきた。私の詩集に数編子どもを題
材にしたものがあったのでそれを気にとめておいてくださったのだろう。
 「この間、本(同人誌のこと)送ってもらってたけれど、感想言ってなくてごめんなさいね。」
先生がそれ以上何も言わないので、また私の方から解説をした。「お世辞もあると思うんです
が、皆さんおもしろいと言ってくださいますよ。そのおもしろいには、文学的視点は入ってな
くて、話の中身がおもしろいという意味だと思うんですけれど。」なるほどというように先生
は笑っていたが「いや、おもしろいですよ。」と応えてくれた。「ところで先生、津軽弁の部
分わかりましたか?」彼は、少し間をおいてから、「分かりますよ。若いころ……10年もあ
の辺に居たのですから……」
 先生の瞳が夢を見ているような表情になっていた。そして何かを思い出している様子だった。
 私が退出するときに、先生が大通りまで出て見送ってくれた。30mほど歩いたとき後ろを
振り返ったら、先生が見送っている。100m進んだときもまだ見送っていた。私は、李白の
詩を思い浮かべていた。「孤帆の遠影 碧空に尽き ただ見る 長江の天際に流るるを」李白
が友人を見送ったときの詩である。200mほど進んだときは、さすがにもう彼の姿は見えな
かった。私は、人生にまたひと区切りをつけたのだと思った。

 北教函館卒、青森県教職員(71〜08年)、松越文雄の筆名で詩と短編を書いている。

                                  2012.1.9 記

 
谷口先生のご自宅前にて
 
2012年02月07日10時20分
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「元禄時代と聖ラ・サール」

元副校長  石井 恭一
 
 私はラ・サール会の修道士です。私どもの修道会は、昔からたくさんの方のお世話になっており、また、昨年
亡くなられた水上修道士は特にグロリア会の皆様とは長いおつき合いをさせていただきました。この機会にあつ
くお礼を申し上げます。
 さて、このたび長塚会長様から、私になにか書くようにとのご依頼がありました。いろいろ考えたのですが、
私どもの修道会の創立者、聖ラ・サールについて書いてみようと思いました。
 というのは、ちょうどいま、NHKの大河ドラマで、「吉宗」をやっているからです。ドラマの吉宗は(五月
放送分では)まだ将軍になっていません。将軍は六代家宣で、吉宗は紀州藩主になって五年ほどで、紀州藩の財
政立て直しに苦心しているところです。
 この頃、ラ・サールは六十才に入り晩年を迎えます。ラ・サールの生涯を見ると、自分で創立した修道会の内
部の問題や、修道会と教区司祭との問題等が次々とおこり、絶えず苦労をしているのですが、特に晩年になって
からは深刻な問題が襲ってきます。この後、八年ほどでラ・サールは世を去ることになるのですが、その間に吉
宗も八代将軍になっています。
 というわけで、NHKの「吉宗」をごらんになりながら、同じ時、フランスでは晩年のラ・サールがいろいろ
と苦労していたのかと思っていただくと、ラ・サールもあんがい身近な人物として感じていただけるのではない
かと思います。

 ラ・サールは一六五一年四月にフランスで生まれましたが、ほとんど同じ頃に三代将軍家光が死去しています。
ですからラ・サールが修道会を創立して会員を指導し、無報酬学校を設立してその維持にいろいろと心を砕いた
生涯は、日本のいわゆる「元禄時代」と重なり合います。(ここで元禄時代という場合、元禄という年号を使っ
た十六年間と限定せずに、文化の問題も含めて、五代綱吉から八代吉宗の初めまでと考える説に従います)
 元禄時代というと、華やかな時代を連想します。事実家康が幕府を開いてから百年近くの年月が流れ、“槍は
袋に刀は鞘に”というわけで、戦乱の様相は影を潜め、江戸、大阪、京都の三都を中心にして、日本にはいわゆ
る「元禄文化」の花が咲きました。
 当時の世界を歴史年表で見ると分かりますが、ヨーロッパやアジア地域では大小様々な戦争や内乱が続くのに
対して、日本の国内では、時折、農民一揆、飢饉、異常気象等が見られるものの、内乱や対外的な戦争はありま
せん。もちろん幕府の政策がすべてうまくいったわけではなく、多くの問題が起きていたのですが、しかし当時
の世界の各地域と比べると、はるかに安定した社会でした。
 日本がこのような時代をつくり出していた頃、フランスではラ・サールが、自分に対する召出しの道を歩んで
いました。
 一六八五年、貞享四年、五代将軍綱吉があの有名な、「生類憐みの令」を出したとき、ラ・サールは自分の故
郷のランスに、教師を養成する施設を創りました。教育の歴史のなかで初めて現れた師範学校でした。
 一六八九年、松尾芭蕉が江戸から奥の細道の旅に出るとき、ラ・サールは三十八才です。
 かれはすでに二年前からパリに出てきて、無報酬の学校や、自身が始めた修道会の指導に力を入れはじめてい
るのですが、一方、教区の主任司祭や、パリの初等学校の教師たちとの間に難しい問題が起きてくるのです。
 元禄十年を過ぎる頃には、将軍のお膝もとの江戸には特に大名たちのぜいたくが目立ち始め、幕府は華美な生
活を戒め、江戸城大奥にも倹約令が出されます。そして元禄十四年(一七〇一)、のんびりした江戸町人たちの
夢を打ち破るように、江戸城松の廊下での浅野内匠頭の吉良上野介に対する刃傷事件が起き、翌年には、大石内
蔵之助に率いられた赤穂四十七士の討ち入りとなるのです。
 この頃のパリにおけるラ・サールの事業は、微妙な問題を抱えつつも順調な歩みを見せていました。パリ市内
現在のモンパルナス近くですが、そこに広い土地を世話してもらったラ・サールは、修道院、修練院、学校、寄
宿舎等を設け、寄宿舎には亡命中の英国王・ジェームス二世や家臣の子息五十人を受け入れたり、また仕事をし
ている青年を対象とした宗教教育や職業教育をおこなう「日曜学級」などの、時代に適応した新しい事業も開い
ています。
 しかしこのあたりから、次第にラ・サールの目の前には、会の内部の離反や、外部からの種々の妨害等の深刻
な問題が迫ってきます。そして六十才の半ばになる頃には、特にマルセイユを中心とした南フランスでは、創立
者、育成者であるラ・サール自身に対する中傷、妨害が会の内部からも外部からも激しく現れてきます。そして
南フランスにいたラ・サールは心身共に疲れ果て、自分が会の運営から手を引いた方がよいのではないかと考え
るほどになります。
 日本ではその間に五代将軍綱吉が死去、六代七代の時代はいずれも短く、一七一六年(享保元年)、ついに吉
宗が八代将軍の座に着ぎました。ラ・サールは六十五才でした。
 この後、神のみ旨を信じながら再び会の指導を続けるべくパリにもどったラ・サールは、三年後に後事を弟子
たちに委ねて六十八才で世を去りました。
 以上、ラ・サールの生涯を元禄時代の江戸と比較しながら見てきましたが、この期間に、上にあげてきた人々
の他に、貝原益軒、関孝和、井原西鶴、近松門左衛門、新井白石、荻生徂来、大岡越前守等、われわれにも馴染
みの深い人々が生きていたのです。
 特に貝原益軒はラ・サールより二十一才年長で、八十四才の長寿を全うし、ラ・サールよりわずか五年前に死
去しています。つまりこの二人の生涯はほとんど重なり合うのです。そして、ご承知のように益軒は「和俗童子
訓」という、日本で初めての体系的な教育書、子育て書を書きました。この本は儒教の教えに基づいた礼儀を土
台にして、幼児から青年期にいたるまでの教育の手ほどきを記した本です。
 一方、益軒と同時代のフランスではラ・サールが「キリスト教徒として守るべき礼儀作法」という本を書いて
います。この本は、ふさわしいキリスト教徒となるための礼儀作法の手引きです。
 当時、礼儀作法は社会生活をするための「必須科目」でした。そして宮廷や貴族の上流階級の子どもたちは、
それを家庭教師から個人的に学んでいました。また、商人の徒弟たちは仕事場で主人から教えてもらっていまし
た。ということは、上流階級でもなく、徒弟にもなれない貧しい子どもたちには、礼儀作法を学ぶ機会がなく、
したがって社会生活に参加する道を閉ざされていたわけです。ラ・サールはそのような子どもたちのために礼儀
作法の本を書き、かれらに社会参加の道を開き、同時にかれらに、キリスト教徒としてふさわしい立居振るまい
をも教えたのでした。
 この本は大きな反響を呼び、ベストセラーとなり、十八世紀、十九世紀を通じておどろくべき版を重ねるので
すが、西と東で時を同じくして、一方はキリスト教を土台とした礼儀作法、他方は儒教を土台とした礼儀作法の
子どもの教育書が出版されたことは、たいへん興味あることです。
 このように聖ラ・サールという聖人を、日本の元禄時代から眺めてみると、この聖人の生涯がもっと身近かに
感じられると思うのですがいかがでしょうか。
 なお、ラ・サールは貧困児童を中心とした、民衆教育に献身する修道会を創立したのですが、それとほとんど
同じ時に、同じ北フランスに、同じ目的で創立された修道会が、現在も日本で活躍していることを、少しお知ら
せしておきたいと思います。
 ラ・サールが司祭になる頃、パリの西方百二十キロほどにあるルーアンという町で、バレ神父というミニモ会
の修道司祭が、貧困女子の無報酬教育に献身する婦人たちを指導し、貧困者の無報酬教育の先駆的役割を果たし
ていました。司祭になったラ・サールはやがてこのバレ神父を自分の霊的指導者とします。またバレ神父に指導
されていた婦人たちの集りも「幼きイエス会」という修道会になり、明治五年に来日、日本各地で女子教育に活
躍するようになります。現在の「雙葉学園」です。
 また、ラ・サールと神学校の同窓であったゴテ・デ・マレという司祭は後にシャルトルの大司教になりますが、
このシャルトルに一六九六年、女子修道会が生まれ、一七〇八年、ゴテ・デ・マレ大司教によって「シャルトル
聖パウロ修道女会」と名づけられます。この修道会は明治十一年に来日しました。現在の「白百合学園」です。
 こうして見ると、雙葉学園、白百合学園、そしてラ・サール高校は三百年前から不思議なご縁で結ばれていた
ということができます。「ご縁」というよりこれは、神のご計画というべきでしょうか。
 ラ・サールは臨終のとき「私は、あらゆることで、私に対する神のお導きを崇めます」といいました。これが
ラ・サールのこの世で残した最後の言葉になったわけですが、三百年前、日本の元禄時代に、フランスのルーア
ン、シャルトル、そしてランスの三つの町の信仰の泉から流れ始めた小さな流れが、いま、この日本にまで及ん
でいることを思うとき、私は聖書の次の言葉を思い起こすのです。
 「主のみ前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」(ペトロⅡ3の8)
(東京日野市ラ・サール会修士)

 
 この文章は、平成7年7月に函館グロリア会の機関誌「グロリア」に掲載されたものです。
 石井恭一先生は、1970〜71年に、本校の副校長をつとめられ、現在は、仙台ラ・サールホームにおられます。

 
2011年05月31日08時50分
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50周年記念行事に参加して

元教諭  海川 敏雄
 
 僕が、此の度の50周年記念の行事に直接的に関わった部分は記念誌の編集という作業だけであったが、
間接的には、22日のジャズコンサートを皮切りに、23日の式典・フォーラム・トークセッション・祝賀会、
更には、祝賀会を中座しての1期生・3期生の同期会への参加、24日の公開授業参観・・・へと続き、
僅か3日間という短い期間ではあったが、実に愉快な、充実した「至福」の時を過ごすことになった。
今振り返って見て、人生の晩年に至って、このような感動を伴った体験を得ることができたことを、
心から嬉しく思っている。

 僕の教師生活は43年間である。その間、時間講師として他の学校の教壇に立ったことはあるが、
ラ・サール一筋に歩いてきた・・と思っている。昭和36年の開校2年目から平成14年3月までの、
思えば波乱に富んだ43年間であった・・・。学園紛争は、まさにその最たるものであろうし、
木古内の海岸や大沼での生徒の水死事故、紛争前後に起きた教え子の自殺事件・・・等、悲しく辛い思い出は、
30〜40年以上経った今も脳裏の片隅に焼きついている。それだけに、記念行事の中で味わった喜びの中には、
複雑さを伴った様々な思いが凝縮されていていたのではなかったか・・・と思う。

 ラ・サールの卒業生は、時を経て大きな成長を遂げていた。それぞれの会場で、社会の様々の分野で
中堅となって活躍している多くの卒業生に出合った。このようなことは、何も今回に限ったものではなく、
ここ10年ほどの間に、本校の同窓生の間に顕著に見られる現象?・・ではあるが、それが一堂に会した姿は
まさに壮観であった。彼らの在学中に僕が描いた将来の姿は、その殆どが医者や歯科医師であり、
公務員や大企業の社員であり、法律家や学者等であった。それが大きく様変わりしていたのだ。
確かに当時描いていた彼らの将来像の一部分は当たっているが、ジャズマン、作家、漫画家、画家、
役者、芸能人、指揮者、ギターリスト、新聞記者、アナウンサー、企業家・・・と言った、
殆ど脳裏に浮かばなかった職種に就いて、しかもそれぞれの道の第一線で活躍している著名人が
数多くいるのを改めて認識させられたのだ。これは嬉しい誤算であった。そして、この認識によって、
先程抱いた複雑な思いも消え失せ、すっかり有頂天になっていた。函館ラ・サールは、何も、
医者や学者や一流企業の社員を輩出するだけの学校ではあるまい! 生徒の個性を尊重し、
それぞれが持っている能力をそれぞれの分野で最大限に伸ばしてやるような、そんな環境を備えた学校・・・、
それが本校のあるべき姿ではないのか?・・・、そして、これだけの人材を輩出している現状を考えると、
勿論、彼らの能力や努力は称賛に値するが、本校には、その成長を促すような土壌が存在していたのでは
なかったか?・・・、だとしたら、我々の関わったラ・サールの教育は、決して捨てたものでは
なかったのでは?・・・等々、思いは果てしなく広がり、一時、愉快な思いに浸ったのだった。

 会場のあちこちで、多くの同窓生にお会いしたが、中には50年近くも会っていないために、
名前を告げられても直ぐには理解できず、帰宅して急いで同窓会名簿をめくり、漸く納得できた
ケース等も多かった。すっかり頭部が白くなり薄くなっている者、威風堂々たる体躯と貫禄を有する者・・・等、
高校時代の面影を辛うじて残してはいるが、嘗てのあの紅顔の美少年の面影とは程遠くなっている・・・。
だが考えてみると、こうした思いは相対的なもので、僕が感じた以上に、相手だって同じようなことを
考えていたに相違ないのだ。半世紀が経つというのはこういうことなのだな・・・と思ったのだった。

 かくして、様々な感慨や思い出を残して「50周年」は終了した。式典や祝賀会はいずれも
ラ・サール会設立の学校にふさわしい風格と品位を備え、愛と温もりの滲み出た素晴らしいものであり、
同窓会主催の行事を含め、ちょっぴり豪華で、まさに函館ラ・サール最大のイベントと呼ぶに
ふさわしい内容であったと思う。

 あの祝賀会場で肩を組み、皆で「IT'S A LONG WAY・・・」を合唱した時の感動が、今も甦ってくる。
あの時僕は、函館ラ・サールと関わって生きた我が半生を思い、熱い感動を伴った「至福」の時を
過ごしていたのだった。そして、our heart is here・・・と叫んでいた。優れた教え子達と、
誠実で豊かな心を持つブラザーと、優秀な同僚に恵まれた喜びを、全身で感じていたのだった・・・。

 函館ラ・サール学園の更なる発展と、同窓生諸氏の御健勝を心から祈念して止まない。

 
大雪山系・石狩岳山頂にて(2010.8.19)
 
2010年11月12日15時04分
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聖ラ・サールの宗教哲学とその展開 ―日本哲学・教育の観点から-

千葉県立東金商業高等学校 社会科教諭 中富 清和(12期)
 
 フランスのカトリック司祭、聖ラ・サール(saint Jean-Baptiste de La Salle)は、近代学校教育においてクラス編成や教師養成学校(現在の教育大学)を考案したことで知られている。彼のキリストの名における教育理念・実践は哲学であり、21世紀の今日においても教育の展開をしている。存命中、彼はフランス国内に50の学校(無授業料)を作り、その精神・情熱は時代と国を超え、ラ・サール会による学校は、世界80カ国、約1000校に及ぶ。日本においても函館市と鹿児島市に高等学校(1)が、仙台に児童養護施設(2)があり、国内では高い評価を受けている。聖ラ・サールのキリスト者としての誠実な生き方、教育への情熱、人間愛、堅固な忍耐力は、深く我々の心を打つ。彼の宗教哲学・教育哲学は、キリスト教に基づくが、アジアの仏教国、儒教国においても広まっている。その普遍性は、彼の深く広い人間観によるものであり、その中核は、「神に対する人間の崇敬の外的表示としての礼儀の哲学」である。教育は、相手に対する敬意(教師、生徒相互)が必要であり、その根拠は神への崇敬にある。こうした礼儀を重んじる思想は、歴史的には孔子である。ラ・サールの「礼の宗教哲学」は、時空を超えて孔子の「礼の哲学」に連続する。ここに、ラ・サールの教育理念は、アジアにおいても理解され、受け入れられる根拠が見出される。今日、ヨーロッパ哲学とアジア哲学の総合が課題とされているが、ラ・サールの哲学は、その総合の先駆をなしている。ここに彼の業績を讃えて私の「無と愛の哲学」の立場から、彼の哲学・教育実践の偉大さとその展開を提示したい。それは、21世紀の教育、哲学の光となるであろう。

生涯-幸福と挫折
ラ・サールは1651年フランス、ランスの裁判官の長男として生まれた。石井恭一氏(ラ・サール会修道士)の本(3)によると、ラ・サールは極めて平坦な幼年期、不自由のない生活をしていた。裁判官の家庭というと、現代では高級公務員、エリートの家庭、裕福な家庭である。両親ともカトリック信者で、父、モエ・ド・ブルイエは、常に礼拝では、最前列に座りかつ司祭の祈りは全部覚えていたという。母、ニコルも信心深く、ラ・サールに限りない愛情を注いだという。ラ・サールは、素直に神を受け入れ信じ、成長した。聖職者になるべくランス大学神学課程に進み、さらにパリの神学校に学んだ。ラ・サールは聖職者としてのエリートの道を順調に歩んでいた。しかし、20歳の時、思わぬ試練に見舞われた。1年の間に、両親を失うのである。父は47歳、母は38歳で病死する。弱冠20歳のラ・サールは家と6人の弟や妹の面倒をみなければならなくなった。両親を失う不幸は、中国の孔子、イスラムのムハンマドも同様で、人類の偉大な先哲に共通するように思われる。
 ランスに戻ったラ・サールは、くじけることなく6人の弟妹をみながら、神学の勉強を続けた。現在でいえば、通信教育であろうか。両親の死にめげず、勉学のかいあって、27歳で念願のカトリック司祭となった。この途上、ラ・サールを慰め励ましたのは、ニコラ・ロラン司祭で、慈善事業や無報酬教育に強い関心を持っていた。彼は、ランスの町で無報酬学校を始めた。しかし、1678年急逝、事業の継続をラ・サールにゆだねたのである。さらに、親戚のマイユフエール夫人、重病で余命はかない篤志家レヴェーク・ド・クロワイエール夫人の提言などにより、ラ・サールは教育へ向かうこととなった。マイユフエール夫人の学校設立の手紙を運んできたアドリアン・ニエルとラ・サールは出会い、男子の無報酬学校が開校された。しかし、アドリアン・ニエルは学校事務長としては、適任であったが、教育そのものについては、素人であった。教師を集めることはできたが、教師を指導することはできなかった。当時の教師は、現在のような専門教育機関、大学を出ているわけではなく、教育の訓練を受けていなかった。集まった若者は、町中にいる若者を集めただけの集団であった。それで、ラ・サールは、まず、教師の養成をしなければならなかった。
 この若者達は、まず、礼儀作法が欠けていた。礼儀作法は社会への参加章(4)のようなもので、これを身につけていないと社会人とは認められなかった。ルイ
14世、フランス絶対王政の全盛時の当時、宮廷では、儀式に始まり儀式に終わった。この儀式、礼儀作法をヨーロッパ社会の柱にしたのは、キリスト教であった。それは「神に対する人間の崇敬の外的表示」として、詳細に規定されていた。ミサの祈りの姿勢、言葉、行列、祭具、装飾などへの配慮である。こうした典礼は、作法は、騎士、宮廷の作法に影響を与えた。(この礼儀作法重視の姿勢は、孔子とつながる)ラ・サールは司祭として、礼儀作法を身につけていたが、礼儀を欠く若者達には、目に余るものがあったであろう。ついには、自宅に、この若者達を呼び、共同生活を始めた。当然、家族の反対も生じ、結局、家の近くに二軒の家を借り、若者達と共同生活をした。その内容は、修道生活で、彼らにとっては厳しい修行であった。何人も逃げだし、二人の時もあったという。しかし、教えは徐々に浸透し、青年達も増えていった。
 やがて、ラ・サールは重大な決意を迫られた。それは若者達の将来である。無報酬学校なので、収入のあては見込めない。若者達は、将来の生活保障に悩んだ。ラ・サールは有名な箇所、
「空の鳥をご覧なさい、蒔きもしなければ刈りもせず、倉におさめることもしません。でも、天の父はその鳥たちを養われます。あなたたちは鳥よりもはるかに優れたものでしょう。・・・・・・・明日のために心配しないでください。明日は明日で自分で心配します。一日の苦労は一日で足りるのです。」(聖書 マタイによる福音書第6章26節~34節)
と諭す。しかし、若者達は言う、
「ラ・サール神父様、私たちはあなたにうまく利用されているのです。あなたは、ラ・サール家の主人で、また、ランス司教座聖堂参事会員です。先祖から伝わった広い土地や家をお持ちの上に、さらに、参事会員としての職録も受けておられます。だからどんな波目に陥っても、あなたは困らないわけです。保障されているのですから。でも私たちはどうなのでしょうか?」(5)
 ラ・サールは、若者達をとどめるために、家の財産と聖職者としての職録を放棄する。これは歴史における仏陀の出家、孔子の平和論実践による司法大臣の放棄と重なる。歴史の偉大な先哲は、人生のどこかで名誉、地位、財産を捨てざるを得ない。ある意味では、無になること。しかし、この無は、単なる無でなく無限の可能性へ連続する。すなわち、仏陀は、悟りに至り、孔子は弟子達の教育へ向かう。ラ・サールは、財産を失うが、教育者となる若者達を得た。それは、教育の礎となった。1684年ランスに「キリスト教学校修士会」(通称、ラ・サール会)が誕生、会員数も60名に達し教育
活動は軌道にのりだした。
 ランスでの学校が順調に行くと、今度は、パリの学校経営で呼びだされた。その学校は、生徒数約200名で、混乱状態にあった。時間割もなく、キリスト教の教理教育もなされず、規律は乱れ、何と、生徒達は運動場で賭け事をしていたという。教育現場で働いている筆者にとって、この状況は、容易に察しがつく。無報酬学校に来る家庭は、そもそも授業料を払えないほど、経済的に貧しい。親は、生きるのに精一杯で、子供の教育どころではない。子供は躾がされず、感覚と欲望におもむくまま。両親がいれば良い方で、片親の場合は、深夜作業で親が朝、起きることができない。親子ともども朝寝坊で朝食もなし。こんな状態で、学校にきても勉強に集中できない。私語、ざわめき、奇声、嘲笑、器物損壊、暴力と心はすさんでいる。こういう生徒達を教育するわけであるから、聖職者といえども、教育と聖職者の生活は不可能である。(現代では、教育者は一つの職業になっている。)それで、ラ・サール会は司祭をおかない。教育は一人の人間が心身共に捧げ切る価値ある仕事として司祭との兼任は認めない。それでモットーは「司祭がおらず全員が教育のみに身を捧げる修道会」とした。こうした活動には、やはり障碍、妨害が生じた。ラ・サールは、優秀なルールー修道士を会長に任命したが、司教がこれを許可しなかった。司祭と修道士の間には格差があり、修道士が修道会の会長になることは認められなかった。また、ルールー修道士は、パリのある学校の指導者となったが、嫉妬からであろうか、これに不満の古参修道士は、脱会した(6)。
 パリ進出を果たしたラ・サールは、評判が高かったのであろう、立て続けに三校を開校した。ところが、パリに行ってから、ラ・サールはランスとの往復で、疲労、閉尿症になる。重体で、生死を賭けて「馬の薬」を使用、奇跡的に回復した。運もよかった。名声が広がる一方、逆風も激しくなった。習字学校、有料学校の教師達がラ・サールを裁判で訴えたのである。その理由は、「貧しい子を集めるといいながら、裕福な子供を入学させて授業料をとっている」すなわち、詐欺的教育活動をしていると(7)。ラ・サールはこれに対して、反論せず結局、敗訴。学校は停止、不当にも学校は襲撃されてしまう。かろうじて、シェタルデイー神父により鎮静化されたが、このシェタルデイー神父が、ラ・サールにとって支援者であり、また、最大の妨害者という矛盾の権化であった。味方と敵が同一という矛盾の存在は、ヨーロッパ哲学では、異常としかいいようがない。(しかし、日本哲学の西田幾多郎は、これを絶対矛盾的自己同一と表現し、新しい論理学を提起した。)このシェタルデイー神父は、ルイ14世にも謁見できる高級聖職者で、権力志向の高級官僚と思えば良いのかもしれない。役人の世界では、なんでも上司の命令に従うのが常識。異議を唱えることは、反逆に等しい。現在の日本では、左遷か窓際族にさせられるのがおちである。ラ・サールは、しばしば異論を唱えた(譲らない点があった)というから、目をつけられたのは当然。そもそも事業内容自体が、質的に違っていた。ラ・サールは従来とは違う教育を考えていたわけで、従来の施策を踏襲、監督するシェタルデイー神父とは、ベクトルが違っていた。シェタルデイー神父は、さながら文科省の官僚、ラ・サールは学校現場の教員と校長を兼ねた最前線の教育者である。間に入る人がいなかったので、ラ・サールは不遜な部下に見えたであろう。故に、シェタルデイー神父の迫害は、激しくなった。
 その第一は、ラ・サール会の厳しすぎる苦行である。詳細は不明だが、たとえば断食であろう。石井氏の本によると、修道院で戒律のもっとも厳しいトラピスト修道会(正確には、厳律シトー会)を目指していた。初期にいた、15人の修道士中、6人は30歳前に他界した(8)。半分近くのメンバーが死に至るほどの苦行である。仕事中にも倒れたり、差し障ることもままあったようだ。この苦行をやめるようにシェタルデイー神父は忠告したが、ラ・サールは止めなかった。教育に向かう厳しい姿勢のあらわれであろうが、続けられた。無論、後ほどラ・サールは止めるようになるが、この時は続けた。第二は、ミシェル修練長(修道士の指導者)が、数人の修練士にちょっとした過ちで体罰を加えた。体罰を受けた修練士は、シェタルデイー神父に訴えたのである。ラ・サールの引き落としをねらっていた、シェタルデイー神父は直ちに、大司教に報告。ラ・サールの監督不行き届き、指導力不足を告発、ラ・サール会の会長を罷免させた(1702年)。パリの有料学校の教師達による告訴は、この後である。
 こうした迫害、試練の嵐の中でラ・サールは何を考えたであろうか?さらには、ともにラ・サール会の設立に誓約を交わした仲間が裏切ったり、有力な支援者も去って行った。事態は、最悪であった。しかし、こうした試練によってラ・サールは、不屈の忍耐力を身につけ、思考、理念も鍛錬されたのである。
「信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現れの時に称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」(聖書 第一 ペテロの手紙 1章7節)
 身内からの攻撃は、敵の攻撃よりはるかにダメージは大きい。上司からの迫害、仲間の背信は何ほどのダメージをラ・サールに与えたであろう。おそらくは、ラ・サール以外の者は挫折したに違いない。しかし、ラ・サールはこうした、迫害、裏切りに屈しなかった。シェタルデイー神父や、パリの教師達の迫害、仲間の裏切りという試練は、逆にラ・サールの情熱、理念、哲学をさらに高めたのである。試練が強ければ強いほど、ラ・サールは磨かれ、金銀を超えて永遠の輝きを放つダイヤモンドの光を放つに至ったのである。ラ・サール会の会長職を失う無に直面し、その前には財産を放棄し無一文の無となり、裁判に敗訴し、教育活動は停止され、過酷な無の遭遇となった。しかし、この無は、単なる無ではなく、無限、永遠の輝きにいたる。無は無限、永遠、超越者、愛へと連続する「無と愛の原理」(9)の機能である。ラ・サールの生涯にもこの原理は適合される。それは、キリストも同様である。キリストも無を体験し、永遠の命を証明した。そして、永遠、無限に高められた。
「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現れ、ご自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」(聖書 ピリピ人への手紙 第2章6~9節)
ラ・サールも、無という闇の中で、逆に、無限、永遠に至るエネルギー(神的エネルギー)を享受し、高められていたのである。故に、逆境であってもヤケになったり、匙をなげることはしなかった。また、大きな抵抗もしなかった。裁判に関しても、出廷せず、判決にまかせた。シェタルデイー神父に対しても、抗議はしなかった。ここが、ラ・サールの賢明なところで、争いよりも道を広げる方へ、勢力を傾けた。試練を受けつつもフランスの様々なところに、学校を開いていた。苦難よりも教育実践、学校開設による喜びの方が、遙かに大きかったのである。北フランスでは、ランス、シャルトル、ギーズ、ルーアン、ヴェルサイユなど、さらには、南フランスでは、アヴィニオン、マルセイユ、グルノーブルで開校された。パリでは、八方ふさがり、四面楚歌の状況であったが、南フランスでは、快く、ラ・サールをむかえたのである。結局、迫害の嵐の中、ラ・サールは、無理な航海は避けて、南フランスに移る(1712年、61歳)。当時、南フランスは、方言のなまりが強く、異邦人のような地であった。それだけに、ラ・サールは南フランスへの学校建設への情熱を注いだ。言語の苦労はあったが、パリにおけるようなしがらみ、迫害はなく、着実に教育は広がっていった。ただ、南フランスのカミザール地方には、ナントの勅令廃止に抵抗する新教(カルヴァン派)の勢力があり、ルイ14世王政と対立していた。ルイ14世の軍隊も鎮圧できなかった。こうした治安が不安定の地にもラ・サールは入り、カトリック、新教徒、関係なく子供達を教えたのである。そこには、異教徒に対しても平等の教育を実践しようとするラ・サールの広く深い人類愛がうかがえる。この情熱が、世界教育へと展開し、日本にまで広がったのである。
 南フランスでは、暖かく迎えられ、落着かと思われた。しかし、思わぬ苦境にみまわれた。それは、当時、ローマ教皇、ルイ14世から異端宣告された、ジャンセニズムの信仰者としての誤解である。ジャンセニズムは、人間の自由意志より、神の恩寵を重視するアウグスチヌスの教説に基づいているが、ローマ教皇の勅書を無視し、フランス国王が要求した「信仰宣誓書」への署名を拒否したことにより反体制派とされた。パリのポール・ロワイヤル修道院が牙城となり、フランス全土に広がっていた。ラ・サールの弟が信仰し、それでラ・サールもその一派の疑いをかけられた。このポール・ロワイヤル修道院は、哲学者パスカルの信仰、回心に影響を与え、パスカルはポール・ロワイヤルの立場から論陣を張ったのが、『プロバンシャル書簡集』であり、死ぬ38歳までつづられたのが『パンセ』である(この時ラ・サールは11歳)。故に、神学的・哲学的には極めて有効、強力であった。ラ・サールの学校は、反教皇、反国王派として、迫害、弾圧されたのである。かつての同士、ポンス修道士もラ・サールを非難し、去って行った。かつての教え子(修道士)も公然と背を向け冷たい対応をした。何と、修道院に宿泊中のラ・サールに宿泊料金を請求したという。家主に向かって、間借り人が宿泊料金を請求するようなものだ。幸い、「キリスト教婦人共同体」という小さな信心団体がラ・サールを泊めてくれた。ラ・サールの生涯において、女性達(女子修道会)はしばしば、支えたのである。特に、宿泊先もままならずリューマチの再発で、苦しんでいた1715年春、グルノーブルの近郊パルメニーの丘でのことである。安住の南フランスで、まさかの迫害である。絶体絶命の苦境、ラ・サールは自分の生涯を回顧する。「一切の財産を捨てて、教育の事業に邁進してきた。これで良かったのか」孔子の大いなる迷いのようだ。ここで、無学だが純心のルイーズ隠修女と出会う。極めて短い対話だが、ルイーズから次の言葉をたまわる。
「神があなたを父となさった家族を見捨ててはいけません。この仕事は、あなたの受け持たれる仕事です。」(10)
この言葉で、ラ・サールは心を立て直したといわれる。神的な言葉、あるいは哲学的直観ともいえる劇的な衝動、電撃を受けたのである。ちょうど、この時、なんとパリから帰還要請の手紙を受け取る。
「神父様、神父様はあなたのお名前と、本会全体によって神に従順を約束なさいました。それゆえ私どもはその本会の名によって、直ちに本会全体を統率なさることを神父様に謙虚な心でお願いし、また、ご命令いたす次第でございます。」(11)
 ラ・サールの事業は正当なものとして改めて評価されたのである。大逆転である。その後、ラ・サールの最大の迫害者シェタルデイー神父は、死去。パリに戻ったラ・サールは、ラ・サール会を立て直し、ランスで総会を開催、バルテルミー総長を選出し、会の礎を確実にした。1719年、神へ感謝の言葉を残して、平安のうちに昇天した。波乱万丈の生涯であるが、キリストにおける礼儀の哲学は、一時も揺るがなかった。では、その核心の哲学に至ろう。

Ⅱ.礼儀の宗教哲学
 石井恭一氏は、ラ・サールの研究において、日本との比較考察をされている。これは極めて興味深く、おそらく、ラ・サール研究では、初めてであろう。ラ・サールになじみの薄い日本人にとって、江戸時代の出来事と比較すると理解しやすい。ラ・サールの礼儀作法の本は、当時ヨーロッパでは、ベストセラーになったという。それほど、ラ・サールの礼儀作法の理論は説得力があり、また、格式高かったということである。当然、そこには、深い哲学があったわけで、石井氏は、江戸時代の碩学、貝原益軒の学理と礼儀理論を紹介し、比較考察されている。それ自体、独自の研究なので、ここでは、立ち入らない。ところで、貝原益軒は孔子の思想を受けている。私は、さらなる根源を求めて孔子そのものに切り込み、ラ・サールの礼儀の哲学と考察し、ラ・サールの哲学をさらに普遍的にしたい。私は既に、著書『無と愛の哲学』第8章 孔子の仁 及び 2本の英語論文「孔子の平和論」「孔子の正義論」(12)において、私における孔子の理解と位置を確立した。この観点から、論じていきたい。
 さて、ラ・サールの礼儀とは、神に対する敬意から人間に及ぶ敬意である。それに対して、孔子の礼とは、仁の現れ、外的表現である。そこに、孔子の思想には、神が抜けているという指摘がある。確かに、孔子は迷信的な鬼神は否定したが、しかし、天は認めている。あるいは、天には畏敬の念を抱いている。そもそも、古代中国では、自然神、祖先神を含め、天地万物を支配する命の流れ、実在として「天」の思想があった。孔子もこの天を畏敬する。その最も有名な箇所が
「子の曰わく、予れ言うこと無からんと欲す。子貢が曰く、子も如し言わずんば、則ち小子何をか述べん。子の曰わく、天何をか言うや。四時行われ、百物生ず。天何をか言うや。」
訳 
「「先生がわしはもう何も言うまいと思う。」といわれた。子貢が「先生がもし何も言わなければ、わたくしども門人は何を受け伝えましょう。{どうかお話をしてください。}」というと、先生はいわれた、「天は何か言うだろうか。四季はめぐっているし、万物も生長している。天は何か言うだろうか。{何も言わなくても、教えはある。ことばだけを頼りにしてはいけない。}」」(『論語』陽貨十九)
ここに、孔子が天を認めるとともに、天は何も言わ無い、「無」を直観している。愛弟子、息子を失った孔子は、落胆の余り「我いうこと無し」と表現できない無を伝えている。伝統的には、無の思想は、老子、荘子のアイデアとされているが、荘子は儒教を学んでいる。ゆえに、孔子の無が荘子に伝えられたと考えることができる。そして、この天、無の直観は、神直観と連続する。
 キリスト教において、天地万物を支配する神は、人間を超越したヤハウエの神であるが、これはいまだかつて見たものはいない。つまり人知を超越した、超越者である。故に、中国思想における天と極めて近いといわざるを得ない。少なくとも、人知を超えているので天とともに超越者と呼ぶことができる。そして、この超越者は、人知を超えているわけであるから、言葉をも超えているので、「無」と呼ぶことができる。こう理解することで、キリスト教の神と中国思想の天とがつながる。さらに、これはイスラム教のアッラーの神や世界の諸宗教の神にも適用されうる。たとえば、「アッラーは余りにも偉大なので、言葉では表現しきれない。言葉を超えているので無である」と。この論理については「キリスト教、仏教、イスラム教の哲学的総合」で論証した(13)。この原理は無と愛の原理と呼ぶが、この立場をとることによって、宗教だけではなく、物理学、生物学、政治学、経済学、他の学問の地平を開くことができた(14)。
 ようするに、天、無の考えを導入することによって、時空を超えてラ・サールと孔子は結びつくのである。孔子は天の下にあって、相手に敬意を払うのである。これが孔子の礼の核心である。ラ・サールは神において相手に敬意を払う。核心において共通性を認めることができよう。
 孔子における礼であるが、これは現在の日本でも生きている。「規律、礼」この学校での実践は、一番身近なものである。さらに、冠婚葬祭の儀式である。本来、孔子は孤児として巫祝者の中で生活し、供えごと、葬儀を通して礼楽一般の教養を深めた。下級官吏として宮使いをしているので一層、礼儀は必要となった。故に礼儀作法については、プロといってよいだろう。礼は形式的なものではなく、仁(人間愛)を現す重要な意味がある。礼についての貴重な箇所は、柔道の規範となっている。
「顔淵、仁を問う。子の曰わく、己れ克めて礼に復るを仁と為す。一日己れを克めて礼に復れば、天下仁に帰す。仁を為すこと己れに由る。而して人に由らんや。顔淵の曰わく、請う、其の目を問わん。子の曰わく、礼に非ざれば視ること勿かれ、礼に非ざれば聴くこと勿かれ、礼に非ざれば言うこと勿かれ、礼に非ざれば動くこと勿かれ。顔淵の曰わく、回、不敏なりと雖ども、請う、其の語を事とせん。」

「顔淵が仁のことをおたずねした。先生はいわれた、「わが身をつつしんで礼{の規範}にたちもどるのが仁ということだ。一日でも身をつつしんで礼にたちもどれば、世界じゅうが仁になつくようになる。仁を行なうのは自分しだいだ。どうして人だのみできようか。」顔淵が「どうかその要点をお聞かせ下さい。」といったので、先生はいわれた、「礼にはずれたことは見えず、礼にはずれたことは聞かず、礼にはずれたことは言わず、礼にはずれたことはしないことだ。」顔淵はいった、「回はおろかではございますが、このおことばを実行させていただきましょう。」」(『論語』顔淵 一)
 ここでは「己れを克めて礼に復るを仁と為す」に代表されるように、仁と礼の区別はなくなる。それは表れとしての相違であって根源において同一である。一日でも身を慎んで礼に立ち戻れば、世界中が仁になつく。仁を行うのは自分次第で、どうして人頼みできよう。仁の実践は主体的なものである。顔淵が要点を聞くと礼にはずれたことは見ず、聞かず、言わず、行わず。即ち、感覚から言動まですべて礼と一体化することである。自分の感覚、一挙手一投足、言葉のすみずみまで、常に緊張して仁、礼の実践を孔子は説く。その精神は、ラ・サールも同様である。歩き方、話し方、飲食、すべてに具体的に記している。それらは、「黙想集」、修道生活の具体的な指針を集めた「手引き」や「会則」、「キリスト教徒の義務」、「キリスト教徒として守るべき礼儀作法」、「キリスト教学校運営指針」などに記録されている(15)。歩き方については、同僚が町中で手をブラブラさせて歩いていることを注意、姿勢を正した凛々しい歩き方を指導している。町中の視線を彼は、十分に注意していた。姿勢、歩き方は、その人の人生への姿勢、心を表していることを了解していた。服装については、ラ・サール会独自の服装を定めた。町中でも、一般市民にもわかるようにした。良い意味での自己アピールである。もし、こうした、司祭者とは違う服装をしなければ彼らの活動の独自性が一般者に示すことができない。ラ・サールは常に、自分の学校組織を広めることを指向していたのである。

Ⅲ、結論
 ラ・サールの礼儀の哲学は現代の教育にも至り、学ぶべき点は多々ある。たとえば、授業開始前の生徒の起立、礼である。これは、現在の日本でも行われている。略礼として、座礼もあるが、やはり、起立、礼は、お互い気持ちのよいものである。開始時には、生徒は「お願いします。」、終了時には「ありがとうございました。」生徒は教師に、常に尊敬の念を持ち、教師は生徒を敬愛する。また、授業中は、静寂が基本。ラ・サールは徹底していたようである。基本的には、教師の声のみが響き、生徒は静かにノートを取り静聴する。質問があれば、挙手をする。私語や無断の移動は、厳禁である。この2点に関しても、現在の日本の教育に共通する。クラス崩壊、学校崩壊の状態は、まず、この2点が欠けている。意欲のない生徒は、鐘がなっても席につかず、廊下や階段にたむろ。座りこんで雑談にふける。けじめはなく、休み時間にパン、お菓子をのべつくまなく食べ、ゴミを散らかしたまま。席についても隣やうしろの生徒と私語、何回注意を受けてもヘラヘラわらうだけで、改善の余地なし。授業中のトイレは頻繁で、すべてそれを理由にかってに動きまわる。授業を乱すので、廊下に出すと、他の授業で廊下に出された連中と徒党を組み、学校中走り回り、あげくの果ては、かってにサッカーや卓球をやりだす始末。もはや学校ではない。しかし、崩壊した、学校、学級とはこんなものである。こうした状態では、起立、礼も成立しないし、静寂もありえない。学力低下もはなはだしく、進路(進学、就職)は望むべくもない。彼らは、人生を投げている。退学にして(簡単にはできないが)、町中にだせば、たちまち、ヤクザ、チンピラの餌食になり、身を崩すのは目に見える。故に、学校にとどめている施設であり、学校とはいえない。犠牲者は、半分近くのまともなまじめな生徒である。授業が頻繁に中断されるからである。こうした現状の学校、クラスもあることを考えるとラ・サールの礼の教育論は、けっして古いのでもないし、単なる理論、きれい事でもない。ラ・サールは、学校、修練院において詳細な規則を定めているが、みな、おおかたは、必要であり、彼自身、無法状態、混沌を経験し、苦しんだからこそ、今尚、生きるのである。こうした、礼儀重視の教育論、哲学は、まさに孔子とつながる。すくなとも両者は、財産や地位を捨て、人間の教育を目指した。そこには、深く、広い人間愛があり、その力は、現代にまで及ぶ。今日、日本の教育は崩壊の危機にあるといわれているが、こうした状況においても、具体的かつ明確な指針、光として輝いている。

<注>
函館ラ・サール高等学校、鹿児島ラ・サール高等学校ともに中学校を併設。
児童擁護施設ラ・サールホーム
石井恭一著 『丘を下っていった人―聖ラ・サールの生涯』ラ・サール会 ラ・サール学園同窓会 2004年 印刷 鹿児島サンケイ  ラ・サールについての資料は、この書に基づいた。石井恭一氏は函館ラ・サール高等学校元副校長  筆者は同校の卒業生(1974年卒業)。
前掲書 p、36
前掲書 p、39
前掲書 p、65
前掲書 pp、103~104 1704年1月の出来事
前掲書 pp、91~95 苦行の一つに、たとえば哲学者パスカルは、釘のついたベルトを使用していた。睡魔に襲われた時は、釘で腹部をさしたという。 
中富清和著 『無と愛の哲学』北樹出版 2002年 pp、377~383
(10)「丘を下っていった人」 p、156
(11)前掲書 p、157   1714年4月1日付
(12)’ Theory of peace of Confucius ‘
“Parerga” No.2/2006 ( Poland, University of Finance and Management Warsaw English version )
HYPERLINK "http://papers.isud.org/files/Nakatomi_Kiyokasu.doc " http://papers.isud.org/files/Nakatomi_Kiyokasu.doc
  International Society for Universal Dialogue ( USA, Emporia University )
’ A theory of Justice by Confucius ‘
Website:
HYPERLINK "http://papers.isud.org/2009/04/-nakatomi-kiyokazu-atheory-of-justice-by-confucius-.html " http://papers.isud.org/2009/04/-nakatomi-kiyokazu-atheory-of-justice-by-confucius-.html
International Society for Universal Dialogue (USA, Emporia University )
(13).’A Philosophical Synthesis of Christianity, Buddhism and Islam ‘
“Parerga” No.2/2010 ( Poland, University of Finance and Management Warsaw, French version, scheduled )
Discourse-P”(Philosophy, Politics,   Power, Public relations) 2005/ Ⅴ
( Russian Academy of Science, Russian version )
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“ Synthesis of Science and Higher Education in social-cultural field “ articles of science, 2005 ( Russia, Krasnodar State University, Russian and English version )
“Teme”No.2/2008 ( Serbia, University of Niš, English and Macedonian version )
Website: HYPERLINK "http://teme.junis.ni.ac.yu/teme2-2008/teme2-2008.htm " http://teme.junis.ni.ac.yu/teme2-2008/teme2-2008.htm
“Parerga” No.2/2005 (Poland, University of Finance and Management Warsaw English version)
“Celestia ”2010 ( Greece, University of Athens, Greek version, scheduled) ¨
(14)´On the synthesis of the theory of relativity and quantum theory ‘
“Człowiek I Filozofia”2008 (Poland, University of Finance and Management Warsaw, French version)
“Discourse-P”(Philosophy, Politics, Power, Public relations) 2007/ Ⅶ
(Russian Academy of Science, Russian version)
Website:   HYPERLINK "http://discourse-pm.ur.ru/discours7/kiekazu.php " http://discourse-pm.ur.ru/discours7/kiekazu.php
“Teme”No.3/2007 (Serbia, University of Niš, Macedonian version)    
Website: HYPERLINK "http://teme.junis.ni.ac.yu/teme3-2007/teme3-2007.html " http://teme.junis.ni.ac.yu/teme3-2007/teme3-2007.html
“CZŁOWIEX W KULTURZE” ( Poland, University of Finance and Management Warsaw English version)
World Congress of Philosophy in Korea, 2008, section: philosophy of natural science English version
“ Celestia ”2010 ( Greece, University of Athens, Greek version, scheduled )
.’ Evolution and Non-evolution ‘
“ Revue de Philosophie Française “ 2009, ( Société franco-japonaise de philosophie, Japanese and French version )
“Celestia ”2010 ( Greece, University of Athens, English and French version, scheduled)
‘ The code of Ethics of the Enterprise Samurai ‘
“ Eine Philosophie Eine Welt Ein Mensch “ ( Germany, Europäische Akademie der Naturwissenschaften Hannover, 2010, English version )
“ Parerga” No.3/2010 ( Poland, University of Finance and Management Warsaw ,Polish version, )
(15)「丘を下っていった人」 p、190

 
千葉県立東金商業高等学校 社会科教諭 中富 清和(12期)
 
2010年01月14日10時06分
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マルセル・プティ先生

ラ・サール学園(鹿児島)3期生 松木 實
 
 マルセル・プティ先生は1918年5月14日、モントリオールから約80キロのところにあるセント・ソウベールで生まれた。8人兄弟の末っ子であった。
 プティ先生が通ったのが、ラ・サール会の少・中学校であった、そこで修道士の献身的な姿に感銘を受けて、少年マルセル・プティ自身も修道士となり教育家を目指すことになる。
 その后アメリカ・ミズリー州にあるラ・サール会の大学で修士課程を修了し、カナダに帰ってラ・サール校で英語をおしえていた。1945年セント・ジェロームという町で、プティ先生に英語を習った一人がアンドレ・ラベル先生である。
 ある日その彼に、日本に行って欲しいとの依頼が舞い込んできた。戦后の日本復興を行っていたアメリカのG・H・Qが、カナダのラ・サール会へ修道士の派遣を要請したのである。
 当時日本の各地には、まだ空襲による焼野原が残っており、修道会活動の為の建物すらなかった。その建造物復興に必要なクギやガラスの調達のほか、自分の食料は自分で持って行くようにという指示があったので、沢山の缶詰を買い込んだそうである。たばこも大量に積み込んだが、これは自分が吸うためではなく、建築にたずさわる人達を鼓舞し、能率を上げてもらう為であった。当時の日本では煙草は貴重品で、なかなか手に入らなかった。
 1948年プティ先生はサン・フランシスコから乗船し、横浜まで2週間の船旅であった。3年前までは敵として戦った未知の国、日本についてどんな想いを抱いて太平洋を渡られたことであろうか。
 日本に着いてすぐ宮城県仙台市にある孤児院ラ・サール・ホームに着任。そこで奉仕活動を行っていたが、ある日カナダから着いた救護物資を受け取る為に横浜に赴いた。その後プティ先生は東京のある教会に宿泊されたが、そこで偶々お会いになったのが鹿児島カトリック教区の七田神父である。
 話は遡るが、1549年聖フランシスコ・ザビエルがヤジローに先導されて鹿児島に上陸され、日本に始めてキリスト教を伝えられた。その上陸400年記念祭にバチカンから法王の名代として枢機卿が派遣されることになり、聖ザビエルの聖腕とともに鹿児島を訪問される事が決定されていた。
 カトリック鹿児島教区ではその事を祝って3つの記念事業を決定するが、その1つとして鹿児島にカトリック系男子校を開設することになったのである。
 七田神父はその学校経営を引き受けてくださる修道会を決めるべく東京に来ておられたのである。但し戦后間もない当時どこの修道会もそんな余裕はなく、その日も神父はお願いに歩き廻られたが、どこからもよい返事が頂けずすっかり疲れ果てておられた。
 七田神父は若い頃パリに留学したことがあり、ラ・サール修道会のことはよく知っておられた。神父はプティ先生などラ・サール会の修道士と偶然会われたことを神の恵み、そして神の啓示と喜ばれたことであろう。男子校の開校のことを熱心にお願いされた。
 但しラ・サール会は学校を鹿児島に開校することには、なかなか同意されなかった。一度は北九州に開校する計画が先行したようである。その后も色々の経緯はあったが結局は鹿児島に開校されることになったのは、神の摂理が働いたのだと思わざるを得ない。
 1949年その新設校の校長にプティ先生が抜擢されて、本人自身が大変びっくりされたそうである。第一に年令の若さ、そして日本語も満足に話すことが出来ない上、なによりも日本の教育についてほとんど知識がなかったからであった。
 そのプティ先生を決意させたのが、敗戦に打ちひしがれた日本の姿であった。『なんとかして、この国の未来をになう子供達の力になりたい。』そう心を決めて、先生は仙台駅で鹿児島迄の切符を買われた。その際、駅員の人がとても驚いていた顔を懐かしく思い出すと言っておられたが、当時そんな長距離の旅をする人が少なかったからであろう。
 鹿児島では学校創設にあたって、粒ぞろいの先生と生徒を集める為に奔走された。当時ある新聞社とのインタービューに答えて、先生はこう語っている。『私の教育のビジョンは、道徳的・社会的かつ知的に調和のとれた人格を養成することです。』
 遠方より入学する生徒のために、旧島津別邸を借り受けて寄宿舎とし、図書館にはカナダのラ・サール会から送られてきた洋書3000冊と、新しく購入された日本書2500冊が収められた。校舎などはカナダの信徒から送られた寄付金などで整備された。
 1950年4月の開校式にはアメリカ占領下にもかかわらず、日の丸の旗を揚げて国歌君が代を歌うことを奨励したのもプティ先生であった。敗戦で意気消沈していた人々に、日本人であることを誇りに思って貰いたい一心だったそうだ。
 貧しくて不安な世の中だったからこそ、皆と常に明るく接し、教職員・保護者・生徒が心ひとつになることを常に心掛けておられたそうである。
 当時校庭で行われた朝礼で、プティ先生は毎朝5分間のスピーチを英語でされた。いつもトレンディーで、ユーモアとウィットに富んだものであった。
 後年先生に朝礼のスピーチは楽しみだったとお話しすると、5分間のスピーチの為に毎日2時間程準備をされたということをお聞きして、先生の教育に対する熱意と真剣さに感銘を受けたものである。又、先生は歌が上手でフランス語で『アルエット』『スリアン』などを教えて頂いた。日本の歌では特に『長崎の鐘』がお好きであった。
 プティ先生が目指したものは、『ファミリー・スピリットに根ざした学校を作る』ことだった。開校の頃からクリスマス時、先生は各クラスに箱を用意した。その箱の中に自分達の物を、貧しい人達のために分け与えるためであった。それが現在、毎年11月に開催される『クリスマス・バスケット・バザー』となって、収益金が世界各国に寄付されているのである。
 プティ先生はカナダに帰国する際に、卒業生の有志から送られた餞別でコンピューターを購入された。それは日本から遠く離れた地でも、Eメールによって卒業生との交流を続ける為であった。
 先生は日本の文化、特に茶道に興味を持っておられた。1974年には当時の裏千家家元千宗室氏からのご指示で、ラ・サール学園に茶道部が創部されたが、プティ先生は自ら希望されて初代部長を務められた。ご自分でも茶道はつづけられ、モントリオールに帰られてからも、茶会に出席して楽しんでおられた。
 2008年5月14日、プティ先生の90歳の誕生日には、鹿児島で先生の薫陶を受けた1期生から4期生まで8名の卒業生がモントリオール迄伺って、心のこもったお祝いをすることが出来たことは本当に感動的であった。
 その后病状もよくなられ、クリスマスにはメールなども頂いたので喜んでいたが、2009年6月28日残念ながら天国に召されたのである。
 7月初め天皇・皇后陛下が日加修好条約80周年記念に訪加された折、オタワで行われるレセプションに、プティ先生にも日本大使館からご招待状が届いていた。1988年、先生は日本国での教育に盡力されたご功績により、叙勲を受けておられたからである。先生はご招待を大変喜び、出席することを楽しみにしておられたとのことであった。
 8月5日に行われたご葬儀でも、先生が勲章をつけられた正装姿のお写真が飾られ、叙勲のメダルも添えられていた。日本の皇室を非常に尊敬しておられたプティ先生を偲んでのことである。
 ご葬儀は先生と親しかったブリエール神父の司式で行われ、先生を天国へお送りするのにふさわしい立派なものであった。途中で先生の生涯を物語るDVDも上映され、最后は『長崎の鐘』の曲が流れる中、参列者全員が先生の霊箱に手を置いてお別れをした。そのあとラ・サール会の修道士の方々が眠っておられる墓地に行って、埋葬までさせて頂いたのである。

  2009年8月

 
2009年12月09日16時46分
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寮生活と人格形成

酪農学園大学附属とわの森三愛高等学校副校長 黒畑勝男(15期)
 
 ラ・サールで過ごした日々は、各々に固有の宝である。青春の輝きを放つ共有の宝でもある。そして、四六時中ともに過ごしたラ・サール寮での時間の結晶は、琥珀色になってゆく宝の核をなしている。体と心が最も著しく変わり大きく成長する時期に、それぞれが少年の人生にはなかった経験を重ねてゆく。子供の無垢さや純粋さをしっかり残しながら、大人の社会に近づいてゆく日々に果敢に挑んでゆく。未知に憧れ、背伸びをし、ときに傷つき、見出し、自らの足で歩むことを覚えた日々であった。
 大部屋の生活から始まり、第二寮、第三寮と次第に環境が変わっていく。徐々に自分の居場所やとるべき距離感を学び成長して行く。いつもそこに友がいて、そこで学び、互いに成長を確かめつつ歩んだ。確かめることは時には互いを否定し合うことでもあった。しかし、卒業を間近にする3年生の冬休み明けの受験の準備の中、誰もが別れ離れ行く寂しさに思い出を分かち合った。寮を去る日、抱き合って襟を濡らした友の温もりを忘れない。大人になるための冒険する日々の思い出は、あたたかな光となって一人一人の胸の中に今も輝いている。
 寮生活は、学校ラ・サールの気風を“地”で行くことであった。否、ラ・サールの気風、ラ・サールスピリットやファミリースピリットは寮気質を基にしたものだろう。ただ、我ら15期は卒業式もままならなかったラ・サール学生運動を経験していない。また、14期寮自治会からの15期への寮生活“伝統”伝授の時と、15期から16期への伝承の際には、“入魂会”などの慣習を自ら大きくそぎ落としてきている。それゆえ、15期が3年間で経験した寮生活の在り様を寮生活の伝統とは一概には言えない。ただ、寮生の暮らしぶりや流行、行動の習性はその時代々々のラ・サール気質を現していた。寮で主流の行動パターンやしぐさが学校を一斉風靡する(…TPOを弁えているとは言えない場面も多々あったと思うが…)。そして、ともすれば市街に繰り出すときのラ・サール生のスタイル、スタンスともなった。「ラ・サールの生徒が、ラ・サールの生徒が、街中行けば、○○の(女)生徒が声をかける・・・・」という無邪気だが自嘲的とも聞こえる歌が寮内で流行ったが、これもラ・サール気質を確認するためのコミュニケーションの方法であったのだろうし、ラ・サール気質に一定の自覚があったのだろう。
 函館の風光もラ・サールの気風をつくったと思う。函館の風、宇賀の浦の香り、街並みや商店街の新旧を併せ持つ風景、穏やかな気候や海と函館山、香雪園の丘陵も、日々、寮生の一人一人に、青春のページをしっかりと描かせた。
 ある朝、予想した晴天だ。授業変更告知板で授業カットが知らされる。あらかじめ変更など知らないはずの生徒たちが、信じられない迅速さでジンギスカンの準備を調え香雪園の丘に向かっている。ある時は一晩中語り明かす。寮の屋上から夜明けを眺め、湯川温泉街を通って湯浜海岸まで徒党を組んで歩いてゆく。そして映画のシーン張りに海に向かって「ばかやろうー!」などと怒号する。あるいは、ある者は駅前に行きつけの店を持つ。あるいはまた、図書館に通い続ける者、元町のカトリック教会の高校生研究会に通う者がいる。普段の勉強や部活動は当たり前に送りながら、様々なドラマが展開されていたのだ。それがまさに自分たちであったのだから、ラ・サール寮は青春の舞台そのものだった。その舞台を見守る学校と寮は、すばらしい教育力を持っていたのである。
 ラ・サールの教育とは、日本語の“教育”という言葉が意味するところではなく、まさに英語でいうところの “educate” だったように思う。“educate” は、“e” の“外へ”、“duc” の“引き出す”と、“ate” の“させる”を語源的に持つ語である。学校と寮の教職員がこぞって、生徒一人一人の可能性と力を引き出すことに心を合わせていたように感じるのだ。自立と自律する力を基本的に高く備えた生徒たちが集まってきたのだから、学校や寮の姿勢は企図されたものではなくは自然な姿勢であったのかもしれない。しかし、今流行の“自己責任”を問う姿勢を掲げながらも、一方で学校や寮はそれゆえのジレンマを密かに抱えたはずだ。教職員は皆、生徒たちの内側からの成長をじっと見守っていたのだろうと思う。寮生のおおらかな成長と今50代に至ってますます深まりゆく友情、そしてそこに共有する温かな思い出は学校と寮教育の確かさの賜物なのだ。
 15期も東京、札幌や帯広、函館を中心に同期会が度々開かれている。「何か兄弟親戚のような集まりの雰囲気ですよね。何のお集まりですか?」「えっ?いつの同窓会なんですか?」としばしば訊ねられるのもその証拠だろう。寮生は、確かに友人とも兄弟とも違う範疇の“仲”になっていったのである。違う道を歩んでいてもどこか心の深いところで繋がっている。“同窓生”、“同期”という言葉では言い尽くせない絆がある。
 15期生も多くがインターネットのメーリング・グループでメールの一斉配信を享受している。1998年、寮生の小笹君の呼びかけと管理でスタートしたメールでのグループ通信は、今は同じく寮生だった勝屋君に管理が引き継がれ、日本に限らず世界で活躍する同期のメッセージも瞬時に交換する。困ったときには互いに助け合う手段にもなっている。医師として活躍する仲間が問い合わせに活躍することも多くなった。互いに異業種の仲間として楽しく情報を交換しながら絆を日々強くする。こんな同窓会はあまりないようだ。その我ら15期生も人生51年。人生の渋さと面白さ、辛さを感じるようになってきたが、母校ラ・サールも、学校の社会的使命をますます発現すべきフェーズに入ってきていると思う。
 寮が新しくなる。ラ・サールは新たな使命を担ったと確信したい。日本の少子化の流れは止まらない。止まったとしても国内市場の縮小で国力回復への時機を掴めない。他方、地球規模での変化が我々の近未来を脅かしている。世界の人口が現在68億1千万、国連の推計で一年におおよそ8000万人が増加している。10年後は75億、20年後は81億という予測である。世界の諸事情を考慮すれば推計通りに増えないかもしれない。しかし、中国やロシア、東南アジアの経済成長の速さと大きさは、間違いなく世界の食料獲得競争を熾烈な状態にする。ほとんどの農業は灌漑農業で農業用水の確保は生活用水の確保とともに大きな課題となり、水の利用権料が経済や貿易の足かせになってくるのも近未来だろう。日本は新たに温室ガス削減の目標を宣言した。それによって多くの国内摩擦を孕むが、圧倒的な科学技術力と生産力でグリーン・ニューディールの潮流にいち早く乗る総意を持ち、しっかりと外需と外貨獲得で国力を支えつつ安くは買えなくなる食料に対して自給率を一年でも早く高める決意をしなければならない。10年、20年、近未来に必要な人材をラ・サールが送り出したいものだ。その人材を育てる使命を、新たな寮がその一端を担うものと確信する。
 地球環境の危惧を其処此処に感じ、ますます混迷の深まる世界に生き続けていく日本。これからの日本を支える人材育成が一つの教育の使命である。ただし、今人類が直面しているのは潜在的にある人類社会の終焉という問題であろうから、高度経済成長期に国是とした教育の使命とは明らかに違った使命が日本の教育に求められている。だからこそ、公教育の機関でありながら、私立としてキリスト教に基づきラ・サールの掲げた教育の理念に立てられた母校は、ますます社会を照らす光を発するべきであると思う。
 生徒全員が学校での三年間、キリスト教に触れ続けたことは、それぞれ潜在的に影響を与えられたと思う。多感な時期に“見えないもの”がいることが語られ、その見えないものを信ずること、そして信じて行動することの大切さを直接的にも間接的にも知らされたのである。そうして隣人愛の根源を示されたことは、功利的な考えに走りがちな青春期の心に紛れもなく、失ってはいけない宝を注がれたと感じている。私自身も夜、寮から学校と修道院へ繋がる廊下の薄暗い裸電球の下を小走りで抜けて、亀浦先生(神父)の聖書研究会に土生君らとともに出席させていただいていた。それが私の今の人生の基とするものへの出会いともなった。
 15期の寮生の三熊君もリーダー観として、グループメール中で「(前略)・・・函館ラ・サール15期生のすべてが、聖書とその教えに触れるチャンスを少なくとも3年間与えられました。自分と家族の幸せ、事業の成功、毎日直面する困難と立ち向かうことをやめるわけには行きません。しかし、それ以上に、今一度立ち止まり、自分の半生を振り返り、残りの人生をその延長線上に乗せるだけで良いのか、考えるべき時だと思いませんか?また、この終末を現実のものとして見据えて、やがて訪れる危機に対処しつつ、この国をリード出来るものこそが真のリーダーだと思いませんか?」と問いかけている。私たちは、ラ・サールに学んだ卒業生として、母校ラ・サールとともに新たな使命を共有したい。社会を牽引する人材を多く育ててほしいと思うし、少なくとも指導的良き市民を輩出してほしいと思う。
 ラ・サール寮生は、素晴らしい理念と教育環境を持つラ・サール高校の中核をなす。新しく建てられる寮が、世界が新たに必要とする人材を育てる巣となることを願う。世界を回復し新たな世界を創る新たな人材の寮となるよう応援したい、ラ・サールスピリット、ファミリースピリットを卒業生として温めつつ・・・。

 
酪農学園大学附属とわの森三愛高等学校副校長 黒畑勝男(15期)
 
2009年09月28日08時55分
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報酬見直し提案に関するメディアの報道について考える

(財)北海道農業開発公社理事長  近藤光雄(3期)
 
 昨年、報酬見直し提案を巡ってメディアに一方的に批判された。事実とかけ離れた報道が繰り返される中で怒りを感じる一方、「人はこのように陥れられていくのだな」と醒めていた。理事会での議論から一年が経過したので、一つの区切りとして「事件」の経緯と私の考えを述べたい。


待ったなしの公社改革

 昨年6月、北海道農業開発公社に再就職することが決まった。公社は不透明な発注や国、道職員との飲食が問題となるなど改革が待ったなしの状況にあった。私は公社改革が自分のミッションであると考え、理事長就任に当たっては、次の3点が特に重要と考えた。第1に、道や道議会議員との関係を正常化するため、理事会や公社内部でオープンに議論を尽くし透明性を高めていくこと、第2に、事業推進について道との協力は不可欠であるが、公社の独立性を保つことが重要であり、様々な課題について公社の考え方をきちんと打ち出していくこと(注)、第3に、情報公開を徹底すること。以上は34年間の道職員としての経験に基づく判断であった。
 (注) 私は理事長に就任した昨年7月1日に朝日新聞の取材を受け、道との関係について次のように話した。「道とは様々な事業で関係が深く協力は不可欠だが、公社としての独立性も保っていきたい(2008.7.2)」


「一石を投ずる」ための報酬見直し提案

 理事長報酬については、以下の理由から議論することが必要と考え、波紋が生じることを覚悟で「一石を投ずる」こととし、報酬見直しの議案を7月1日の理事会へ提出した。議案の趣旨は「職務内容、責任の度合い、勤務形態などを総合的に勘案した報酬額にすることであり、そのために道と協議すること」である。
 提案した主な理由は次の2点である。
 第1に、公社では道要綱に基づき道出身の理事長報酬を平成20年度から20%削減し660万円とする一方で、民間出身の役員報酬を据え置いた結果、両者の報酬に2倍以上の乖離が生じることになった。これは出身の違いによって差別するものであり、著しく公正を欠くことから是正すべきと考えたこと。私が重視したのは「公平」ではなく、「公正」である。
 第2に、道要綱があるからただ従うということではなく、独立した団体として理事長報酬のあり方について考えを明確にし、道との協議や道への提案を行うことが重要であり、また、そのような姿勢が公社改革を進めていく上でも必要と考えたこと。
 理事会では、議案の審議入りを宣言した直後に「20年度の理事長報酬は既に決定されているので、報酬見直しについては21年度以降に協議すべきである」との発言があり議論が開始された。道要綱の内容を理解していない理事も多く、また、意見が多様であったことから、理事会を中断し常勤役員で協議した結果、議案「平成20年度理事長役員報酬について」は決議事項から協議事項に変更することとし、改めて「理事数名で構成する委員会で、理事長報酬の在り方について考え方をまとめた上で道と協議すること」を議長(理事長)から提案し、理事会がこれを了承した。議論を重視した私にとっては、違和感のない成り行きであり結論だった。


虚偽を含む恣意的な報道

 9月13日以降、新聞各紙が「元副知事は理事長就任にあたり『道要綱が定める条件で再就職する』との承諾書を道に提出した」にもかかわらず、「理事長就任当日の7月1日の理事会で、自らの報酬を規定の倍以上1440万円に引き上げるよう提案していた」「複数の理事から反対意見が出たため、了承されなかった」という要旨の報道をした。
 虚偽を含む恣意的な報道である。
 第1に、私が理事長就任前に「承諾書」を道に提出した事実はない。道農政部が「道との協議には支障がないから」と承諾書の提出を求めてきたのは、理事長就任後の8月28日である。この虚偽のフレーズは「道要綱を無視する傲慢な」元副知事像を人々に強く印象づけた。情報源は「道など(2008.9.14読売新聞)」とされている。
 第2に、報酬見直し提案の趣旨は、報酬を規定の倍以上にすることではない。職務、職責等を総合的に勘案した報酬額にすることであり、そのために道と協議することである。理事会が3月に理事長報酬額1440万円と決定していたので、それを議論の出発点、たたき台としたのである。
 第3に、提出した議案が「了承されなかった」とするのは、議論の経緯と結果を無視するものである。理事会は議論を尽くした末に、「理事長報酬の在り方について考え方をまとめた上で道と協議すること」を了承した。これが7月1日理事会の結論である。
 一連の報道では、道幹部(当時)の発言が重要な役割を果たした。「要綱を承諾して行ったと理解している(2008.9.13北海道新聞)」と独断的な考えを示すとともに、「理事会へ報酬引き上げを提案したが、反対意見が出され何も決まっていない(2008.9.13NHK)」という要旨の事実に反するコメントをした。道幹部の発言によって、「道要綱を無視して報酬引き上げを提案し理事会を混乱させている」元副知事像が「創造」され、広く定着した。公社内部で議論をしている最中であったことを考慮すれば、道幹部は「公社は理事長報酬について考え方を取りまとめると聞いているので、道に協議があった時点で適切に判断する」と発言するだけで十分だったのである。


自由な議論を妨げた社説や特集

 北海道新聞は「要綱を無視して、さじ加減で倍増」「道が例外を認めれば、抜け道を許すこととなる。(2008.9.21社説)」「道が自ら定めた『社会通念』の範囲を逸脱した行為(2008.9.27現代かわら版)」とし、道要綱の「例外なき遵守」を主張した。私は道要綱の規定は社会的規範の一つと言ってもよいと思うが、元東京地検特捜部の郷原信郎氏は「社会的規範が本来の機能を果たすためには、それを無条件に守ることを強制する『遵守』の関係ではなく、『ルールとしてお互いに尊重する』という関係が必要」であり、「当事者や社会全体のコンセンサスが必要」になることを指摘している(2009、思考停止社会ー遵守に蝕まれる日本、講談社現代新書)。
 問題が生じたときには合意に向けた話し合いが重要になる。「団体はこの要綱の定めにより難い特別の事情があるときは、道と協議しなければならない」という規定は、要綱の精神と現実が乖離した時に、お互いに知恵を出し合い問題を解決するためのものと言える。したがって、この規定に基づいて協議しようとする行為は、何ら「要綱無視」と非難されるべきものではない。また、抜け道を許すことにつながるものでもない。問われるべきは、例外を認めること自体ではなく、例外とする理由が妥当か否かである。
 また、道要綱を決めたのは道庁であり、団体はただそれに従えば良いということでは、道が主張する「関与団体の自立化」は実現しない。自立の前提の一つは、団体が自らの考えを明確にすることであり、また、それを可能にする力をつけることである。立場や見解が異なっていても議論を尽くし合意に達する努力をすることが重要であり、この経験の積み重ねが組織の自立を促すことになると思う。 
 公社内部で議論し検討している最中に、社説や特集で一方的な論評を加えたことは妥当だったのだろうか。公社運営に否定的な影響を及ぼしたことは間違いない。恣意的な報道を真実と信じた読者や視聴者から批判や苦情が公社に寄せられ、業務に支障をきたし役職員が動揺したため、理事会での報酬の検討は凍結せざるを得なかった。公社内部での自由な議論、及び公社と道との協議が妨げられたことを誠に遺憾に思う。(注)
(注)私は社説や特集を担当した北海道新聞の編集委員、記者から一度も取材を申し込まれなかった。NHK記者も同様である。報道に携わる者としての良心、資質を問われるべきものであろう。 
 

道は公正な基準とは何か改めて検討すべきである

 道要綱の問題点は次の例を考えると分かりやすい。北海道新聞社OBであれば誰が公社理事長になっても、道要綱が適用されないので報酬は1440万円となる。道職員OBの場合は、道要綱に基づき退職時の地位に応じて報酬が決まる。元副知事は660万円、元本庁部長は560万円となる。公社の常勤役員の報酬について、道農政部は「報酬は他の農業団体並みで問題はない(2008.9.17北海道新聞)」としている。そうであるならば、職務、職責等を勘案して決めるべき報酬にこのような格差が生じていることを放置すべきではないだろう。(注)
 国は「公益法人の設立及び指導監督基準」(平成8年9月20日閣議決定)において、公益法人における「常勤の理事の報酬及び退職金等は、当該法人の資産及び収支の状況並びに民間の給与水準と比べて不当に高額すぎないものとすること」と定めている。国の基準は、第1に、常勤役員の出身の差異にかかわらず職務、職責等を勘案した報酬が可能であること、第2に、団体の個別の事情を考慮した報酬が可能であること、という点で現場の実態にあった公正な基準であると思う。
 国の基準の運用指針には「社会的批判を受けるような高額なものであってはならない」という趣旨が明記されている。道要綱の目的が「道民から誤解や批判を招かないようにするため(田中仁・道人事課主査)」(2008.9.27北海道新聞「現代かわら版」)であるならば、国の基準と目的は同じだ。したがって、道要綱の目的を尊重しながら、国のように公正な基準を定めることができるはずである。道は現場からの問題提起を真摯に受け止め、要綱制定の原点に立ち返って、公正な基準とは何か改めて検討すべきである。
 (注) ただし、道の出資、出捐比率が50%以上であったり、道から人件費の補助を受けている団体の場合には、道職員OBがこのような処遇を受けても理解はできる。しかし、公社はいずれにも該当しない。


一般論としての「天下り」批判は不毛である

 メディアが私の行動を批判した底流には、公務員OBに対する不信感「天下り=高給取り、働かない、税金の無駄遣い」といったステレオタイプ化した見方がある。「天下り」や公務員制度、公益法人が問題や課題を抱えていることは否定しない。無駄を省く改革は必要である。しかし、個別具体的で根拠がある場合を除き、一般論としての「天下り」等の批判は不毛である。当事者のやる気を失わせるという意味で、組織や社会の活力を削ぐものだと思う。
新自由主義の行き過ぎが明らかになった今日、「官」から「民」へのかけ声は聞かれなくなったが、「民=善」「官=悪」という見方は根強く存在する。公益法人においても民間出身の役員の場合は、報酬が高額であっても問題にされることはほとんどない。一方、道職員OBは「民間出身者よりも報酬が少なくとも当然」であり、「ボランティア精神が必要」という意見まである。しかし、道職員OBは民間出身者と同様、職場や地域で一定の役割を果たしている。まじめに働く道職員OBが正当な評価を受け、その経験やノウハウを活かして働くことは地域や組織の活性化に寄与すると確信する。


批判には、事実による裏付けが求められ責任が伴う

 私が理事長に就任したこの一年間で、道倫理条例違反を教訓とした「役職員行動規範」の制定をはじめ、一般競争入札の導入、入札監視委員会の設置など入札制度の改革、収支改善計画の策定及び推進など、農業団体の一部幹部等の反発が根強く存在するものの、公社改革は一歩ずつ進んできている。
 一方、報酬見直し提案に関するメディアの恣意的な報道は、農業関係者を含む広範な人々に私への不信感を抱かせ、公社運営に対して今なお否定的な影響を及ぼしている。
 平成20年度NHK放送文化賞を受賞した経済評論家の内橋克人氏は、報道に携わる後輩に何を伝えたいか問われて、経済記者としての経験や先輩からの教えを踏まえ3点を挙げた。①事実を自分で確認すること②上司に気に入られる記事を書こうとしないこと③攻められる側からカメラを回すこと。報酬見直し提案についても、記者や論説委員等が「天下り」批判の固定観念にとらわれず、内橋氏が指摘した点を踏まえて報道していれば、建設的な議 論がなされ異なった展開になっていたと思う。「道の出捐比率が50%未満であり、人件費の補助も受けていない公社に、なぜ道要綱を適用し役員報酬を制限するのか」「道の関与の仕方や程度が異なる多様な団体に対して、なぜ道要綱を一律に適用しなければならないのか」「同一価値の労働に対する報酬は同一であるべきではないか」といった本質的な問題について、公社と道との間で議論する機会を失ったことは誠に残念である。
 自由な言論、批判は、社会にとってかけがえがない。しかし、批判には、事実による裏付けが求められ責任が伴うことを忘れないでほしい。当事者への取材という最低限の「義務」すら怠り、一部の道庁幹部や道議会議員の情報に寄りかかるのでは事実による裏付けはできない。今回の「事件」のように、自由な批判の名のもとに自由な議論を牽制するような報道が二度と繰り返されないよう、メディア自身によって検証がなされる必要があると考える。


 メディアによる一方的な批判が繰り返される中、函館ラサールの諸先生、同窓生をはじめ多くの方々から心配や励ましの言葉を頂きました。心から感謝申し上げます。

 
2009年09月04日11時14分
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8期生 金谷武洋くんが高1の担任だった津田洋行先生(明治大学文学部教授)の講義の中で特別講演を行う

野呂春樹(8期)
 
8期生・金谷武洋くん(モントリオール大学東アジア研究所日本語科科長。専門は類型論・日本語教育。著書に『日本語に主語はいらない』『主語を抹殺した男:評伝三上章』など)が恩師・津田洋行先生のはからいで、7月15日18:00~19:30、明治大学文学部文芸メディア専攻「テクスト研究A」の中で特別講演を行いました。

テーマ/『アイ・ラブ・ユーを日本語で正しく言うには? -「する言語」と「ある言語」の対照研究-』
講義内容/「愛らしい」「赤ん坊だ」「笑っている」:日本語の基本文はこの3つで必要かつ十分である。明治維新以来の英文法の安易な移植により生まれた日本語文法の「主語」の誤謬からの脱却をはかりたい。三上章の提唱した文法を紹介しつつ、日本語は状態の変化や存在を表現する傾向の強い「なる」言語であり、それに対して英仏語などに代表される主要な西洋語は人間の積極的行為の表現が中心の「する言語」であることを例証する

 津田先生が日本語・表現・文法などに興味のある8期生の聴講を認めてくださいましたので、8期生に聴講を呼びかけたところ、時間の都合のつく8名が集りました。仏語・英語が母国語のモントリオール大学の大学生に日本語や日本文法を教える話など、分かりやすい講義に、大学生たちは大いに刺激を受けたことでしょう。聴講した私たちにもふだん何気なく使っている日本語について新たな発見を見出し、日本語を再認識したような気がします。聴講できなかった人のために講義をDVDにしました。
 金谷くんと津田先生は高2以来、42年ぶりの再会です。かつての恩師と生徒が同じ教室にいて、講演したことを、時空を超え、ほとんどありえないことが実現できたことに、金谷くんも私たち8期生も感激しました。津田先生も函館ラ・サール高校で教師をして、ほんとうに良かったと思ったことでしょう。津田先生は来年3月、明治大学を定年退職します。津田先生からいただいた歌です。

我は古希教え子たちは還暦に近き光陰の再会の時

 その後、仕事で講演に間に合わなかった同期生3人も駆けつけて、近くの小料理屋で津田先生・金谷くんを囲んで大いに盛り上がり、楽しい食事会が23時頃まで続きました。

 
特別講演を行った金谷武洋さん
 
津田洋行先生
 
特別講演に集まった8期生
 
津田先生、金谷さんを囲んで大いに盛り上がった講演後の食事会
 
2009年07月23日16時43分
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官民協働による「人の誘致」 ~「伊達ウェルシーランド構想」によるまちづくり~

伊達市長 菊谷秀吉(7期)
 
1.人の誘致がはじまるまでに
 私は、平成11年5月に市長に就任したが、当時は財政状況が極めて逼迫しており、とても新規事業などできる状況になく、市民にはそのことを理解していただく努力を重ねてきたのである。
 市長は様々な会合に呼ばれ挨拶する機会が多い。そんな機会を利用して私はお金がない話を言い続けた。しかし半年もすぎると議会の質問や、市民の中からも「お金がないのはわかったが夢も希望もないのか。」という声が出始めるのである。そのような声に対して「お金がなければ、知恵を出し、汗を流しましょう。」と答えた。しかし、それだけで満足する答えにはならず、私自身も無言の圧力を感じ、何で最悪な時期に市長になったのだろうとつい弱気を言うようになったはこの頃である。
 秋の要望で東京に出張する機会があり、いつもながらの人の多さに、この中からせめてこの駅の構内にいる人が伊達に来てくれれば大変な数になると思った。ふと選挙の時市内を挨拶回りしているとき北海道は勿論道外などからも伊達に移り住んだ人が多いことが思い出された。企業や大学を誘致することは相当困難だが、せめて人の誘致ぐらい出来ないものか、などと都内の電車に乗りながら思いが頭を駆けめぐった。
「そうだ人の誘致で行こう。」まず進むべき方向が見えれば何とかなるだろうと一筋の光明が見えだした。しかし各論になるとどこから手をつけるべきかイメージはわくものの考えがなかなかまとまらないものである。言葉としては「環境と文化」が思い浮かんだ。都会にあって田舎にないもの。また田舎にあって都会にないものなど、またこれからリタイアする人は高学歴の人が多いから文化的生活も欠かせないなどである。
 あわただしかった1年目がすぎようとしている平成12年3月31日、23年ぶりに有珠山が噴火した。市役所庁舎内に国の災害対策本部が設けられるなど、日々の対応に追われ、あっという間に時間が過ぎていった。ようやく噴火の対応が落ち着き始めた頃、兄の永年の知人である今野由梨さんから連絡があり東京で生活産業情報懇談会があるから参加しないかとの話である。生活産業という聞き慣れない言葉が面白そうに思い参加することとした。
今野さんは女性ながら若くしてベンチャー企業を立ち上げ会社を成長させる傍ら、政府税制調査会委員、北海道開発審議会委員など数多くの公職に就かれている方である。今野さんは東京の勉強会に参加する前に読むべきだと、懇談会の座長である島田晴男慶應義塾大学教授(現千葉商科大学学長)が書かれた本を送ってくださったのである。少しは島田先生のことを知らなければと思いその本を読んだ。学者の書いた本は専門的で面白くないと嫌々読みはじめたら具体的に生活産業の可能性について書かれており一気に読み切ってしまった。伊達市が進めるウェルシーランド構想の原型がそこにあったのである。
 8月に上京し生活産業懇談会に参加した折りに自己紹介の中で伊達市の特性や、私が思い描いている「人の誘致」について話をした。こうして「伊達ウェルシーランド構想」は歩み始めるのである。


2.構想実現のためには民間との協力が不可欠
 伊達ウェルシーランド構想を実現するため、地元企業、金融機関や福祉関係者が主体となったボランティア組織「伊達ウェルシーランド構想プロジェクト研究会」を立ち上げた。自由闊達な意見を取り入れるため、若くて意欲のある人を募り、20歳代後半からおおむね50歳以下の会員数49名で発足したのである。
 研究会は当初、高齢社会において市場性の考えられる生活関連サービスに応じて、①住宅流通部会②IT部会③生活支援サービス部会の3部会で構成されたが、全く手探りの状態からのスタートとなった。
 その後、高齢者居住環境に関する基礎調査や、官民協働による新しい交通システム「ライフモビリティサービス」の実証実験などを通じて、それぞれが事業としての可能性があるかの検討進めていくこととなる。
 構想の基本コンセプトは、市民の4人に1人が高齢者という現実を受け止め、この高齢者層が豊な生活を過ごせる環境を創ることができれば誰でもが住みやすいまちを創ることができ、「人の誘致」にもつながるというものである。 
 そのためのサービスをビジネスとして提供できれば、雇用が創出され、元気なまちづくりにもつながっていくという基本認識を共有しながら新たなサービス産業の創出に向けた取り組みが進められた。
 平成16年5月、それまでの「伊達ウェルシーランド構想プロジェクト研究会」を「豊かなまち創出協議会」へと改組し、研究してきた課題を実践段階へと移行していったのである。

 住宅流通部会で検討を重ねてきたものの一つが「伊達版安心ハウス」である。
 高齢者が安心・安全に暮らせるように、緊急時の対応や食事提供などのサービスの機能を持ち合わせた集合賃貸住宅である。
 安心ハウスは、行政が「伊達版安心ハウス」認定制度を設け、認定した安心ハウスの入居者募集などの広報を行い、営業活動はノウハウを持った民間業者が行い、お互いに足りない部分を補完し合いながら事業を展開している。
 国や市からの補助金は一切受けずに、国土交通省が定める「高齢者円滑入居賃貸住宅」の基準を満たした集合住宅である。
 平成17年に2棟65戸が完成し、現在は43戸に入居しており、内訳は市内から10件、道内からが23件、北海道外10件となっている。
 また、「安心ハウス」は、高齢者に安心・安全な居住環境を提供することにより住み替えを支援し、戸建て住宅を中古市場に流通させ、子育て世代に安価な家賃で供給することをも目的としているが、持ち家を手放すことへの抵抗は強く、一人で生活できる間は持ち家から離れたくないという高齢者が圧倒的に多い現状にある。
 しかし、10年以上先を見据えたときには、高齢者の住み替え促進に必ずや寄与するものと考えている。

 住宅流通部会で検討を進めたもう一つの事業が「伊達版優良田園住宅」である。 多様な住環境の一環として、自然的環境の豊かな地域でゆとりある生活を営むことを求める田園居住に対するニーズの高まりを受け、平成10年7月に「優良田園住宅の建設の促進に関する法律」が施行された。
 「研究会」では伊達市における「優良田園住宅」の建設に向けて先進地視察を行いながら民間事業者が中心となり検討を進めてきた。  
 これを受けて伊達市は、同法に基づく「優良田園住宅の建設の促進に関する基本方針」を平成17年7月に策定し、市有地である農業センター跡地を活用した民間開発による建設事業を進めることとし、公募型プロポーザルにより開発事業者を募集、「伊達建設事業協同組合」を最優秀応募提案者として選定し事業を進めてきた。開発総面積45,109㎡、区画数は53区画、販売価格は平均坪単価で37,000円である。
 開発地は、市の中心部から車で10分程度の距離に位置する農村地帯であり、市民の感覚からすると居住地とは考えにくい場所とも言える。
 しかし、平成19年10月の造成工事着手と同時に予約受付を開始したところ、現在41区画に申込があり、約8割が市外からの申込であり首都圏に居住する方々からの人気が高い。
 平成21年中には、20戸程度が居住する予定となっている。

 生活支援部会で検討を進めてきたのがライフモビリティサービス「相乗りタクシー」である。
 常に自動車で移動している者にとっては気づかないが、自動車を持たない高齢者が、病院や買い物のために外出することは大変なことなのである。バスを利用するにはバス停まで歩いていかなければならないが、高齢者にとって1キロ2キロ歩くことは大変なことである。またタクシーは便利だが料金が高い。そこで考えたのが、相乗りタクシー事業である。
 相乗りタクシーとは、希望の場所から希望の場所までドアtoドアで移送し、乗り合い制を取り入れることにより、一運行当たりの利用者を増やし安価な料金で移送サービスを提供するものである。
 平成18年に伊達商工会議所が事業主体になり「愛のりタクシー」として運行を開始した。平成19年度は年間の運行件数が4,547件となっており、平成20年度は6,876件の利用件数となっている。
 しかし、相乗り率が低いことらビジネスとして成立するには至っていない現状にあり、運行内容などの改善策を検討しているところである。

 平成17年に協議会内にプロジェクトチームを組織して取り組んでいるのが「人の誘致」を目的とした「お試し滞在事業」である。
 本市がいかに温暖な気候とは言え、首都圏に住んでいる人にとって北海道の冬は厳しいものがある。また、数日の滞在ではマチの良さや住みやすさを理解することは困難である。
 そこで、1月単位での生活を経験してもらい、本市を理解してもらうために賃貸住宅のオーナーや不動産業者の協力を得、日常生活品一式を揃えた賃貸住宅を9戸用意した。 
 6月から9月にかけては希望が殺到し、毎年5組程度のキャンセル待ちがでる盛況ぶりであり、1割の方が移住に結びついている。
 「人の誘致」は移住ありきでは前進しない。今住んでいる市民にとって暮らしやすく、高齢者が生きがいを感じることができるまちづくりを進めることが大切であり、今後は、ロングスティや季節移住といった交流人口の拡大も含めた取組が重要となる。


3.住んで良かったと思われる「まち」を目指して
 伊達市も移住先進地として名前が売れるようになった。私たちが進めた結果移住が増えたわけではないがこの10年間でずいぶん学習をすることが出来た。伊達に移住した道外出身者に聞くと、例外なく伊達市の存在を知らなかったと言われる。それでは無名に近い伊達市に多くの移住者が来るのは何故なのかと疑問におもわれると思う。その答えの多くは道内在住者の口コミにより伊達市の存在を知り、実際に現地を訪れ納得して移住すると言われる。つまり、町並みの美しさや、生活の利便性、等々。私はよくこんな表現をする。「都会の人はごみごみしたマチから空気のおいしい田舎に住みたがる。しかし本当の田舎には住めない。ほどほどの田舎がいい。」勿論これが全てとは言えない。
 また、「高齢者ばかり呼んでどうするの。」とよく視察に訪れた人に聞かれるが、もし移住者がこなければ高齢化率が低くなったのかと言えば決してそうではないと思うのである。これといった産業や企業がない伊達市がもし移住者がこなければ過疎化が進行したと思われる。道内の過疎の地域に比べ高齢化率が特別高いわけではない。移住者の増加や高齢化の進行でサービス産業が発展したおかげで若い人の流入も一定程度あるからだ。また人が減らないことで地域に活気がでているのも事実である。
 伊達市は移住対策について特別なことをしたわけではないが、常に意識したことはそこに住んでいる人が何に満足するかということだった。
市民意識は多様であるので大変難しいことだが、そこで生まれたのが、乗り合いタクシーであり安心ハウスなどである。しかしまだ未成熟な点が多くこれからも進化をしなければならない。私は「頭で考えてはだめだ。体で考えよう。」と機会があれば言っている。乗り合いタクシーなどは特にそうだが、出てきた数字だけを見て判断すると改良すべきところが正しく見えてこないときがある。また利用者の視点でと誰しも言うがとおり一遍の聴き方では、利用者でも声の大きい利用者の視点でしか判断されなくなるきらいがある。移住対策で重要なポイントは生活することを様々な角度や立場、環境などから広く深く理解することだと思う。また、高齢者は時間消費者であることも忘れてはならない。そのためには実際に多くの人に会い、聞き、そのことによっていろいろなことを感じ、施策を作るべきだと思うのである。そのことにより豊かと感じられる地域社会が生まれ、移住へとつながるのではないか。

 
伊達市長 菊谷秀吉(7期)
 
2009年07月15日09時38分
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津田先生の短歌が朝日新聞に掲載

元教諭 中越 譲
 
1964年から5年ほど本校で国語の教鞭をとられ、現在は明治大学教授の職にある津田洋行先生の作品が、朝日新聞の歌壇に載っていました。

朝日新聞歌壇に掲載された津田先生の作品
「春眠より覚めたる河馬はどどどおっと淀む春水を溢れさせたり」

歌壇には4人の選者がおられ、4人とも津田先生の作品を選ばれており、さらに4人全員が星印を付けておられました。上の方に星印がついたのは特にすぐれた作品かと思いますが、選者全員が星印を付けることは大変めずらしいことなのではないでしょうか。同じ学舎で教鞭をとったものとして、とても誇らしく思い、ペンを執った次第です。特に5回生の諸君は津田先生と接点が多かったと思いますが、このような形で近況を知ることは大変嬉しいですね。何かと卒業生の記事を目にすることがありますので、また何かありましたらお知らせしたいと思います。

 
2009年05月25日15時37分
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民事裁判はなぜ時間がかかるのか

札幌高等裁判所民事第2部総括裁判官 末永 進(2期)
 
 2期生の末永進です。私の兄弟は4人ですが、直ぐ下の長女美子は夭折し、二男通は6期生、末弟の勉は8期生です。しかし、勉は、平成10年に死去し、今は、小樽で耳鼻咽喉科の医者をしている通と兄弟二人だけになってしまいました。父利美は、函館の松風町の京極通りで時計店を営んでおりました。父も平成20年4月に死去しましたが、兄弟の進路については、先ず世の中を動かしている法律を知らなければならない、人間健康が大切だ、そして、やはり、生きてゆくにはお金が必要だなどと述べ、その言葉に従い、私は裁判官に、通は医者に、勉は銀行員として生きることになりました。
 私は、昭和43年に司法試験に合格し、函館での司法修習を経て、昭和46年4月に札幌地方裁判所で裁判官のスタートを切りました。以後、札幌法務局(国専属の弁護士ともいうべき訟務検事となり、法壇の下から裁判官の仕事ぶりを見つめ、当事者経験を積むことになりました。)、東京地裁、釧路地裁網走支部(このときは任官11年目で、ようやく判事となり、合議の裁判長になったのですが、あの梅田事件という再審事件が待ち受けていました。)、東京地裁(民事第8部という部署で、再建型倒産事件を扱いました。著名事件としては、牛丼の吉野屋、ミシンのリッカー、輸入商社の大沢商会、海運業の三光汽船などがあり、それらの主任裁判官を勤めました。)、札幌地裁室蘭支部、札幌地裁、東京高裁、横浜地裁と主に北海道と東京とを往復し、平成13年の釧路地方・家庭裁判所の所長を経て、平成16年から現在の札幌高等裁判所民事第2部の部総括裁判官として日夜苦闘しています。
 ところで、今日の主題は、私の経歴ではありません。民事裁判はなぜ時間がかかるのかということをお伝えしたいと思います。私も、実際に実務を担当するまでは、なぜ、民事裁判に時間がかかるのか理解できませんでした。民事裁判の実態を知っていただくために、民事裁判について、おおまかにご説明しましょう。
 民事裁判は、原告がある一定の権利に基づいて被告に一定の行為を請求したり、一定の法律関係を確認したり、一定の法律関係を形成したりする制度です。そして、その一定の権利は訴訟物と呼ばれています。たとえば、原告所有の建物になんらの権限もなく居住している被告を退去させるのは、原告の建物所有権に基づく妨害排除請求権という訴訟物によるのです。また、原告所有の建物を被告に貸していたところ、被告が賃料を支払わないので、建物賃貸借契約を解除して、退去させたい場合には、建物賃貸借契約の債務不履行解除に基づく原状回復請求権がその訴訟物となります。
 そして、その訴訟物の存在について、原告に主張立証責任が生ずることになります。すなわち、原告において、その訴訟物の生ずる一定の事実を主張し(いわゆる原告の言い分)、被告にその認否を促し、その言い分を認めれば、原告勝訴の判決となり、被告が原告の言い分を否認したり、知らないと答弁した場合には、原告において、その事実の存在を立証するために証拠を提出することになります。被告は、原告提出の証拠とは相いれない証拠(いわゆる反証)を提出し、裁判官がそれぞれから提出された証拠を吟味して、その事実の存否を判断するのです。その原告・被告の双方の言い分と裁判官の判断過程を文字にしたものが、判決文なのです。
 このように説明すると、民事裁判は極めて簡単なように思われますが、実際には、そのようなわけにはいきません。なぜなら、弁護士のなかには訴訟物という法律用語すら知らない人や、訴訟物の存在を主張するための一定の事実(これを要件事実といいます。)を正確に理解していない人もいるのです。もちろん、本人が訴訟行為を行ういわゆる本人訴訟ならなおさらのことです。
 貸した金を返してくれないという事件を題材にして一例を挙げましょう。原告が提出した訴状には、「原告は、被告とは長年の友人であり、親友であった。その被告が、どうしてもお金がいるので貸してほしい。一月後にはきっと返済できるなどというので、3回にわけて、300万円を貸した。しかしながら、被告は、言を左右にして、300万円を返さない。よって、300万円と平成21年1月31日から年5分の割合による金員の支払を求める。」との記載されています。それに対して、被告は、その答弁書において、「金銭300万円は借りたものではないので否認する。被告は原告に300万円を支払う義務はない。」と主張しています。このような場合に、原告及び被告の主張は十分証拠調べに入ることができるほど整理されているのでしょうか。その答えは否です。これでは、裁判官は、どのような事実の存否を判断すればよいのかはっきりとしないのです。
 このような金銭消費貸借契約に基づく金銭の返還請求権の要件事実は、法律学上、①金銭の交付、②返還約束といわれています。
 訴状記載の原告の言い分では、①の金銭交付の要件事実が不十分なのです。事実としては、いつ、どこで、誰が、どのような形で、誰に、いくらを渡したのかということが主張されなければならないのです。3回に分けてというけれども、それは、いつのことか、それぞれいくらを誰に渡したのか、現金か、手形かなどなどです。また、②の返還約束の要件事実についても、いつ、誰が、いつまでに返済すると言ったのかがはっきりしないと、事実を調べるにしても、調べようがないのです。
 このように、当事者の主張が不十分であり、争点として、どのような事実の存否を判断すれば、勝敗が決まるのかを明確にする手続がいわゆる民事訴訟の口頭弁論期日における裁判官の釈明といわれています。当事者の代理人弁護士がその事案を十分に調べ尽くしていれば、その期日に直ちに返答ができるはずです。しかも、この釈明は、当事者の代理人弁護士がその事件を取り扱う以上、当然予期できる事実なのです。しかし、その実態は、裁判官からの釈明事項に関しては、次回書面により釈明するなどと述べて、当該期日にはそれ以上進行することができない場合がほとんどなのです。このようにして、当事者の言い分を確定させる作業に早くて約1年程度はかかってしまうのが通常なのです。
 もうお分かりでしょう。民事訴訟が遅延する一番大きな要因は、当事者が事実関係を十分に調査せず、したがって、主張すべきことを主張していないことによるのです。確かに、裁判所にも遅延要因がないわけではありません。一人の裁判官の手持ち事件数が多いことや、判決起案に時間が掛かり過ぎることも一因です。しかしながら、十分に事実を調査せずに、訴状を提出する当事者に多くの原因があるのです。
 このようなわけで、民事裁判が遅延しています。そして、我が国の裁判制度は、ある意味で、退化しているような気もしています。目下、小泉政権下における司法制度改革により、刑事裁判手続きにおいて裁判員制度が始まろうとしています。そして、この制度には賛否両論があり、いろいろと問題があるようですが、それよりも問題なのは、法曹資格者を毎年3000人程度に増員しようとしていることなのです。弁護士が増えるのは良いことでしょうが、良いことだけではないのです。先ずは、質の低下が危惧されますし、現に、私の法廷では、その傾向がはっきりと窺われます。法廷で、弁護士にいろいろと教示する必要がでてきているのです。その意味では、法廷がロースクールと化することもあります。さらに、法曹資格者の養成制度が変わり、今までは大学に在学しようが、卒業しようが、司法試験という試験にさえ合格すれば、司法修習生になることができ、それと同時に国家から給与が支給されるので、お金持ちの師弟でなくても、法曹となることが比較的に容易であったのに、今では、大学の法学部を卒業した上、法科大学院に入学し、多大な授業料を支払った上、司法修習生となっても国家からの給与は支給されないこととなり、すべて順調に行ったとしても、25歳にならなければ、自分で稼ぐことができず、その結果、裕福な家庭の子女でなければ、法曹となれないような制度ができあがってしまっているのです。また、弁護士が大増員された結果、弁護士としての収入が減り、弁護士という仕事の魅力が減殺されてきているのです。加えて、通常ならば、事件にならないものが、弁護士の報酬獲得のために、事件として裁判となることも容易に想像できます。日本は確実にアメリカ型のような裁判社会に一歩を踏み出そうとしています。そして、裕福な階層からしか法曹が生まれないことになりつつあるのです。
 私は、来年の12月には定年を迎えます。このような現実の中ですが、私は、天から与えられた使命として、体が許すかぎり、一件、一件の事件を残された時間全力を傾注してがんばろうと思っています。(完)

 
札幌高等裁判所民事第2部総括裁判官 末永 進(2期)
 
2009年05月25日12時50分
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函館ラ・サール50周年に思う

協力会会長  ㈱五島軒 代表取締役社長 若山 直(2期)
 
《50周年記念募金》
 1960年(昭和35年)3月、函館ラ・サール高等学校は開校した。第1期生200名の募集に際し、応募は799名だったという。
 翌年3月、私は第2期生として入学した。今から49年前のことである。函館ラ・サール高校は、明年、2010年に開校50周年を迎えるが、記念事業として「高校寮の全面改築(新築)」と、「旧体育館の改修」を行うことを決定した。協力会として生徒全員から、一律2、000円の募金を募ることをお願いし、了承していただいた。まだまだ十分ではなく、有志が集まって募金活動をする計画をもっているが、昨年9月以降の世界経済不況で、日本経済も未曾有の不況である。当初予定していた募金は集まりそうにない。不況による資材の値下がり、業者の価格競争激化による安値を期待したいところだが、建設会社の体力も弱ってきており、簡単にはいきそうにない。募金計画の見直しが必要になった理由である。学校の財務状況は、現在の函館の中小企業に比較すれば格段に優秀ではあるが、日本の少子化のスピードは急速である。未来の予測が厳しいのは、学校経営そのものが構造不況業種だからだ。差別化のためには、少しでも良い施設を建設し、今後の高校淘汰の時代に備えたいものだ。父母の中には、建前としての募金には賛成でも、本音では反対している人もいるに違いない。現在の父母から募金し、新しい寮や体育館が完成したとき、彼らの子供達はもう卒業して在学していない。そこに通うのは、自分の子供たちとは別の、他人の子供達である。これはわが家でも同じである。若山家には3人のラ・サール生がいる。私のほか、42期生の次男、今年4月に高校3年生になった3男を加え、合計3人。この3人は、寮の恩恵を一度も得たことがなく、今後も受けない。それでも寮が必要なことは理解できるつもりだ。2期生の時代、ラ・サールは未だ創成期で、知名度はなく、合格通知が来たとき、私は自宅の目の前にある西高(当時は校区が決まっており、西高が私の指定校だった)に行くべきか、と迷った。その後のラ・サールのブランドは、我々を含めて、後に入学してきた多くの生徒達が積み重ねてきたものだ。「えー、若山さんはラ・サール出身なんですか。優秀だったんですねえ」と言われるたびに、私は自分の在学時代を思い出し、複雑な気持ちになる。ここはひとつ、「作って良かった」と思える寮を建てることだ。50周年募金は、次の世代への一里塚、未来への必要経費である。
 さて、2010年4月の竣工までに、現在の寮は順次立て替えのために取り壊しされていきます。清水寮長から、「青春の思いでが詰まった懐かしい寮を、今のうちに見に来て下さい」というメッセージが届いています。
 寮をまだ見たことのない方、自宅生の父母の皆さんにも、是非、今のうちに見学してみることをおすすめします。

《函館ラ・サール高校の教育》
 ラ・サールは1651年、フランスに生まれ、1719年に亡くなった人である。後年、彼の名に『聖』が冠されたのは、彼が自ら修道会を作り、無償教育の実践者として生き抜いた希有の人だったからだ。偉人には神格化が伴う。これは洋の東西を問わない。若山家の場合、浄土宗(宗祖は法然)の檀家なので、区切りの年には市内にある称名寺から「法然上人年忌法要ご案内」などが届く。『聖人』も『上人』も、その意味は同じだ。
 ところで、高校3年間の思い出には、ラ・サール精神を教えられた記憶があまりない。修道士、司祭、神父、牧師の違いを知ったのは卒業後のこと。これは当時のラサールの理事長が、日本人の宗教の在り方を考え、キリスト教を教えることを控えたからだろう。当時の函館市民が望んだのは(現在でもそうだと思うが)、「大学受験に強い高校」であって、キリストの教えではなかった。もし開校に当たって、「押し付けがましい」と感じられたら、入学者は限定され、減少しただろう。しかし、建学精神が不足すれば、一般の高校と何ら異なることがなくなり、函館に拠点を構える必要がなくなってしまう。この舵取は難しい。私は入学後に神父、修道士の人柄に触れるにつれ、様々な疑問を抱くようになった。これらの疑問は、むろん受験勉強とは無縁で、直接、先生に質問した記憶もなく、自分の将来の課題として胸の中に抱え込んだ。この疑問は次ぎのようなものだった。その1は、「なぜ、日本ではキリスト教布教が成功していないか」だった。江戸時代、幕府の鎖国政策で弾圧されていたキリスト教は、明治維新とともに解禁となり(実際には、明治20年代ころまで、様々な差別が残っていたといわれる)、新政府の文明開化政策により、急速に宗教の自由化が進んだ。しかし、キリスト教徒の数は、現在にいたるまで総人口の6%を越えたことはない。世界的にみても、同じアジアの韓国や、フィリピンなどに比較しても低い数字である。総本山バチカンの評価では、日本は「布教失敗」の国になっているのではなかろうか。信教の自由を抹殺した、かつての社会主義国、ソビエト連邦(連邦が崩壊して新生ロシアが誕生するや、真っ先に復活したのがロシア正教だった)や、未だ共産主義国である中国や北朝鮮などは別格としても、この数字は低い。自由に布教ができるのにもかかわらず、信者数が増えない現実を、ラ・サール会はどう考えているのだろう。これは『聖ラ・サール』の教えとどう関係しているのか。その2は、「人類平等を説く神父が、なぜ受験戦士の養成をしているのか」ということだった。受験校を建てたということへの疑問といってもよい。3つめの疑問は、母国日本とフランスの比較から生まれた。日本には、フランス人神父のような人物、異国の人間のために、自分の人生を捧げる人はいない(ゼロとは言わないが、比較すればゼロに近いだろう)が、それはなぜだろう。日本の仏教は、死者を弔うことに熱心だが、現世に生きている者を救う情熱を喪失しているように思える。この違いはどこからきたのだろうか。私が抱いたこれらの疑問は、ラ・サール教育とは無縁だったろうか。そうではないだろう。日が経つにつれて、疑問は深さと新しさを増した。今思うに、神父は生徒に受験勉強を教えながら、同時に当時17歳だった私の脳裏に疑問の種を蒔いたのだ。その種を育て、刈り取り、自分の人生に反映させるのは自分しかいない。他人からアドバイスを受けることはできても、答えを正解とするか否かは自分で決めるしかない。受験勉強には、必ず「質問と答え」が用意される。解けない質問などあってはならないからだが、人生についての問いには、これが正解だ、という答えはない。答えは自分が見つけるしかない。聖ラ・サールの理念に基づく教育と、現在行われている受験校ラ・サールの相関関係は何か。私はいまもこの答えを探している。
 確かなことは、ラ・サール教育が、生徒個々人の人生という畑に、多くの種を蒔くことだと思う。

《目の前の現実の中に答えを見つけよう》
 国際的な地域間紛争が増加している。国連には、「紛争解決学」を教える機関があり、そこで教えることの第1は、「目の前の現実の中に答えがある」ということで、「やらない言い訳を探すな」が、それに付属している。この考え方は、多くの物事の解決に適用できるはずだ。
 受験校としてのラ・サールの地位は、今後も盤石だろうか?
 私は危機感を感じるが、それは北海道立高校の影響を考えるからだ。道立高校は、受験に強い「モデル校」を作ることをテコに、改革に乗り出している。函館市内の、東高・北高が統合して誕生した函館高校も例の一つだ。全部を一斉に改革するのは無理だから、まず幾つかの高校に的を絞り、そこに人材を投入し、改革を成功させ、成功から生まれた人材を各所に配分していく試みだ。かつて北海道で一、二位だった函館ラ・サールの受験ランキングは、追いつかれつつある。
 かつて経営上の危機感から、中・高一貫教育が生まれた。もしあの時、中学を誕生させていなかったら、今ころは赤字の危機に見舞われていたはずだ。私立の赤字拡大は倒産への道である。私は協力会の会長という立場から、様々な相談を受けるが、今までなら他校の教師に対する不満、不安の声だった心配ごとが、函館ラ・サールにもあることを聞くようになった。「落ちこぼれを作りながら、補習もせずに放置している」「他校の教師に比較しても不熱心な先生がいる」「ラ・サールに学びながら、受験のために塾に通う生徒が多いが、この現実をどうするつもりか」などである。昨年発生した高校生の不祥事は、このような心配の象徴に思える。むろん、全国どんな高校にも「同様の声はある」のだから、「そう心配はいらない」という意見もあるが、ラ・サールだけは例外であって欲しい。成績不良の生徒がでたら、他校を上回る責任を感じる教師であって欲しい。諸手当を含めれば、函館ラ・サールの給与は道立高校を大きく上回っている。この差は生徒の授業料から生み出されているのだ。高度成長時代、「できる生徒」(教師に指導されずとも、自分で勉強する)が多く入学した時代があった。彼らは普通の教師が普通に教えても、受験ランキングで上位の成績を収めた。変化は、経済バブルが崩壊し、長い不況が続く中で生じてきた。多少とも経済的にゆとりがなければ、私立に入学することはできない。優秀だが貧しい家庭の生徒より、ハングリー精神の乏しい普通の生徒が多くなってきた。他方、この現象は、道立高校への順風となった。道立のモデル校は、広く「職人芸」を持つ教師を集めることで、高位の大学に入学する生徒を増やし、この成功が評判となり、できる生徒も、授業料が割安だから喜んで道立を選択する傾向が生まれたからである。その分だけ、相対的にラ・サールの地位は下がった。昨年以降の「100年に一度」と言われる不況は、この傾向に追い打ちをかけている。放置すれば、この流れは加速度的に進行していくだろう。 実社会では、学歴を問わない企業も増え、「学歴社会は崩壊した」との声も聞かれるが、大方の場合、学力のある者は労苦を厭わず学歴も手に入れることが多い。学歴は決して不要になってはいないのだ。受験校ラ・サールが生き残る道、それは学校経営に携わる者すべてが、聖ラ・サールの教えに回帰し、受験ランキングをアップすることである。目の前の現実の中に、答えは必ず見つかる。「50周年」というまたとない機会を生かすこと、やらない言い訳は探さないこと、これは、第2期生である私自身の自戒である。
 函館ラ・サール高校50周年おめでとうございます。皆様のご多幸、ご健康を心よりお祈り申し上げます。

 
五島軒本店メモリアルホール「蘆火野」にて
 
2009年04月28日11時27分
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柔道部W優勝の快挙!

函館ラ・サール学園柔道部顧問代行 寮教諭 佐々木義隆
 
函館ラ・サール学園柔道部は、五年前より春休み期間中に東京遠征を行っています。
中学、高校ともに都内で1週間ほど合宿を行い、遠征期間中に行われる試合に出
場しています。
例年、中学は、近代柔道杯//全国中学生柔道大会と慶応大学杯、高校は、東京大
学七徳杯と慶応大学杯に参加しています。
東京大学杯と慶応大学杯は、将来、大学に入学し、柔道部に入部してもらうこと
を目的とし開催しているようですが、近年、両大会ともそういった趣旨とは関係
なく、インターハイを狙う関東の強豪高も集まり、夏のインターハイに向けたテ
ストマッチの場となっています。
そういった大会で、今回、慶応大学杯で中学が準優勝、高校が優勝、東京大学七
徳杯で高校が優勝という結果は、選手達にとって大きな自信になりました。
現在、高校は南北海道大会でベスト8という位置ですが、夏の大会では、全国大
会出場に絡めるよう毎日、厳しい稽古に取り組んでいます。
再び、OBの先輩方によい結果が報告できるようこれまで以上に頑張らせたいと
思います。
応援よろしくお願いいたします。
 
優勝した東京大学七徳杯
 
高校が優勝、中学が準優勝した慶応大学杯
 
2009年04月04日09時44分
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大場清太郎先生の思い出

元教諭 海川敏雄
 
 大場先生は大正12年のお生まれである。僕とは15年の年齢の開きがあり、そのため兄と呼ぶには離れすぎているし、父と呼ぶには近すぎる・・・といった間柄で、この関係は先生とのお付き合いの中にそのまま持ち込まれた。別の言い方をすると、先生は僕にとっては時には兄となり、時には父となる・・・、そのような方として存在したということになる。事実、兄のような気安い気持ちで話をすることが多かったし、また、父か師から厳しい教えを受けるような気持ちで意見を伺うこともあった。僕が函館ラ・サール高校に勤め始めた頃(昭和36年、開校して2年目だった)、大場先生は、若い教師の多い同僚の中で唯一の旧制高校のご出身であり(先生は第二高等学校から東北大学を出られた)、新制大学出身の僕らとは一風変わった生活感覚と、強固で一徹な思考形式と思想を身につけていらっしゃった。虚飾を嫌い質実を尊び、物質よりも精神的なものを愛し、清貧を宗とするロマンチストで、強靱な意志を持ったリベラリストでもあった。また、上からの不当な権力には敢然と立ち向かうといった正義派で、そのヒューマンな言動は我々同僚の間では一目置かれた存在だった。
 僕は、当時一緒に赴任した柳瀬喜代志さん(後の早大教授で平成9年死去)と湯川の同じ下宿に住んでいたが、ご自宅が近かったので、二人で時々伺っては薫陶を受けていた。書斎にはドストエフスキイ全集や仏教関係の本が置かれ、数学の先生とは思われないほどの哲学通であることに先ず驚かされた。その頃の同僚は皆若く、公立の校長を退職した後に教頭として迎えられた盛山兵護先生は別にして、37〜38歳の大場先生を頭に、ほとんどの教師は20歳代であった。
 先生はすでに公立の進学校を10年以上経験されたベテラン教師で、担当教科の数学は勿論のこと、学校関係の仕事全般にわたって精通しており、教務部長として当時スタートしたばかりの本校を牽引する任務を担っておられた。専門の数学は、生徒が質問するレベルの問題は、それがいかなる難問であっても、ぐっと睨んだだけで答えが見えてくる・・・というほどの実力派で、生徒の信頼を一身に集めていた。だから僕も柳瀬さんも、大場先生のような「教師」になること・・・が当面の目標であり、それが夢でもあった。
 勤めて間もない頃、先生のことを怖い先生だ・・・と思ったことがあった。というよりも、勤めて半年位の間は怖い先生だったと言うべきであろう。きちんとした考えを持ち、信念を持って教育に打ち込んでおられるから、生半可な考えを許さない。嘘のつけない生一本の性格だから、感情を顕わにして真正面から迫ってくる。当時僕らはよく酒を飲んだが、酒の後でよく議論した。本校は開校してまだ日の浅い学校で、進学校として期待を担ってスタートしたミッションスクールでもあったから、カリキュラムや受験指導・生活指導等をめぐって様々な問題が山積しており、当時は教育論めいた議論が多かった。そのような時、先生はいつもその中心にいらっしゃった。
 先生は、普段は人見知りをするほどの控え目なご性格であるが、それが、酒が入ると人間が一変する。顔面蒼白となり、やがて眼が座ってくる。議論が進むにつれて額に青筋が立つようになり、その座った眼で相手をぐっと睨んで離さない。ペスタロッチがどうだ、カントがどうだ、ガンジーがどうだ・・・、というような話になり、さらには、「歎異抄」も読まずによくもそんなことが言えるな・・・とか、「罪と罰」を読んだこともない奴に解るはずがない・・・となり、果てには、君は勉強が足りない、もっと勉強しなければ駄目だ・・・と一刀両断に切り捨てる。その言葉には、喉元に刃を突きつけてくるような鋭さがあり、あの眼で睨まれると、まるで逆鱗に触れたような感じになって戦意を喪失してしまう。怖い先生だ・・・とその頃は思っていた。
 先生は、当時は一升酒を飲むほどの酒豪で、旧制高校時代にドブロクで鍛えられたのだという。その後胃潰瘍で一時入院され、それを機に酒はプツリと止めた。僕らは、「君子は豹変するものだ」と言って先生の断酒を惜しんだが、真相は、奥様や一人娘の美穂ちゃんのことを思っての決断だったようだ。先生は常々、僕の親父は胃癌で死んだ、だから僕もいずれ胃癌で死ぬ・・・とおっしゃっていた。77歳で亡くなられたが胃癌ではなかった。いかにも家庭思いの先生らしい英断であったと思う。
 大場先生の教育者としての「凄さ」を最初に見せつけられたのは、勤めて半年ほど過ぎた職員会議の時だった。それは、万引きをして捕まったA君の指導について討議するために開かれたものだった。当時ラ・サールは開校して間もなく、今までにこのような問題を抱えたことがなかった。大きな期待をもって創立されたという経緯があり、校則を重んじるカトリック系の学校でもあったから、A君に厳しい処分が下されることが予想されていた。新米教師の僕や柳瀬さんにとってはこうした職員会議は初めてであり、本校の教育理念を具体的に理解するには格好の場である・・・といってよかった。当時の校長を始めとして、職員の大方の雰囲気はA君に厳しいものだった。中には、A君の存在が他の生徒に悪影響を及ぼしかねないことやカトリックの学校として厳しい態度で臨むべきであること等から、即刻に退学にすべきだ、などという強行論まで飛び出すようになった。
 その時手を挙げたのが大場先生だった。先生は立ち上がると沈痛な面もちで、いきなり「Aを切るなら、この大場を切ってからにしてほしい」と絞り出すような声で言った。いつもの先生の声とは違う、悲壮感に満ちた声だった。僕らは呆気にとられた。先生は感情を抑えながら、一言一言自分に言い聞かせるようにA君の弁護を始めた。Aの行為は未熟な子供の出来心から出たもので、指導の余地がまだ十分にあること、Aは優れた才能を持っており、その才能を伸ばしてやることが教師の責務であること、「我々の生徒」が多少の過ちを犯したからといってそれを直ぐに切ってしまうのは教育を放棄することになり、聖ラ・サールの精神に反するものである・・・こと等。
 教師になってまだ半年しか経験のない僕にとっては、正に度肝を抜かれるような衝撃的発言だった。しかもその発言の内容は、正にその通りだ・・・と諸手を挙げて賛意を示したくなるような、明快な道理や魅力を備えた、感動的なものだった。先生のA君への思いや、教育にかける熱意がびんびんと若い僕らの心の琴線に響いてきて、僕らは圧倒され、翻弄された。
 この日を契機にして、大場先生に対する認識が大きく変わったのだった。「怖い先生」から優しい先生へ、「気難しい先生」から話の分かる、信頼できる先生へ・・・と。実際には、先生は「怖い先生」でもなければ「気難しい先生」でもなかった。僕らの目にそのように映ったのは、先生が社交術を持たない、他人にお世辞の言えない謹厳実直なお人柄であったことと、少々短気で歯に布を着せずにものを言う性向・・・から勝手に僕らが曲解し、妄想を作り上げてしまっていたからだった。事実は、温かいハートを備えた人情家で、面倒見のよい、誠実な優しい方であった。
 その後何年か経って、母校の教授となった柳瀬さんを大学の研究室に訪ねたことがあった。彼は函館時代の思い出話の中で、「大場先生は凄い先生でしたね。あの時は、感動のあまり震えが止まりませんでしたよ」と言った。それを聞いて、ああ、彼もやはりそうだったのか・・・と感慨を新たにしたのだった。あの感動は僕だけのものではなかったのだ。先生のあの時の言葉は、その後の僕の教師生活の原点になったのだった。
 大場先生は決して口先だけの人間ではなかった。僕が凄いなぁ・・・と今でも思うのは、先生が、成績や生活指導上に問題を抱えている生徒を自宅に引き取り、親代わりになって世話をし、面倒を見ていた点である。これは真似の出来ることではない。誰にだってプライバシーがあり、ましてや家庭内のことを教え子に覗かれたくないだろう。先生はそれをあえてなさったのだ。たまたま相談したいことがあって、夜に先生のお宅を訪ねたことがあった。丁度その時は自宅に引き取ったばかりのB君を特訓中で、僕の授業中には居眠りばかりしていた怠け者のB君が、神妙な顔をして先生から数学の指導を受けていた。僕の顔を見て「よいところに来てくれた。Bは文法が解らないそうだから見てやって下さい」とおっしゃった。僕以上に驚いたのはB君の方だったろう。その時は僕は勝手な理由をつけて早々に退散したのだったが、B君のようにして先生の世話になり、指導を受け、救われた卒業生を僕は何人か知っている。前述のAもそうだが、BもCもその後大学に進み、今では立派な社会人になって社会の中堅で活躍している。先生は己の教育理念を果敢に実践された方であった。これは希有のことである。
 平成13年9月2日、大場先生は77歳でこの世を去られた。退職なさってからすでに15年が過ぎていた。
 その日の午後3時半頃、僕は先生が入院しておられた函館病院から電話を受けた。娘の美穂ちゃんからだった。父が今、息を引き取りました・・・と。先生は2年前に腎臓に癌が発見され、市内の病院を転院しながら治療を続けておられた。主治医が教え子であるという関係で、先生の症状については、僕はすでに詳しい説明を受けていた。ついに来るべき時が来たのだ、と思った。車で駆けつけると、先生はベッドに横たわっておられた。胸の上で手を組み合わせ、押し黙って彫像のようになった姿が、すでにあの世の人になられたことを静かに語っていた。安らかなお顔であった。
 傍らにラジカセが置かれていた。先生はショパンが好きで、生前にテープに吹き込んでは車の中でよく聴いておられた。そのことをよく知っていた娘さんが、父の最期に、そのショパンのピアノ曲を聴かせたのだという。意識の消えかかっていた先生がそれを耳にすると、嬉しそうにわずかに微笑み、そのまま息を引き取られたのだという。何と悲しくも美しい、父と娘の別れであろう・・・。僕はそれを聞き、涙を禁じることが出来なかった。
 大場先生からは多くのことを学んだ。女房と共に、公私共にお世話になった。ラ・サールの同僚達の中で、最もお世話を頂き、最も懇意なお付き合いをさせて頂いたのは僕ではなかったか、と自惚れている。結婚した時には、仲人までお願いしたのだった。
 先生が亡くなられて早くも6年が過ぎた。事に触れて先生のことを思い出すことが多いが、その中でも、最高の傑作ではないか・・・と僕が思っている、あるエピソードについて最後に書くことにする。
 先生のお宅には、生徒の父母が子供のことについての相談で訪ねて来ることが多かった。そのような折に、父母の中に何か気に食わない言動があったりすると、先生は爪切りを持ち出して黙って足の爪を切り始める。するといかなる父母も居たたまれなくなって逃げ出してしまう・・・のだという。いつだったか、その真偽について奥様にお聞きしたことがあった。すると、「そうなんです・・・、主人には本当に困ってしまいます」という返事が返ってきた。
 中国の故事に「阮籍の白眼(青眼)」の話がある。竹林の七賢の一人であった阮籍(三国時代の魏の詩人。老荘の学を愛し世俗的なものを嫌ったという)は、気に食わない来訪者には白眼を向け、気の合う来訪者には青眼を向けた・・・という。先生の「爪切り」もこれに匹敵するものではないか。正に「大場の爪切り」ともいうべきもので、いかにも大場先生らしい振る舞いだが、先生だからこそ許された行為であったように思われる。 
 大場清太郎先生は今も僕の心の中にいる。



海川先生が私家版として昨年3月に上梓された「我が随想の記」より
「大場清太郎先生の思い出」を許可を得て掲載させていただきました。
管理人 島本

 
在りし日の大場先生
 
2004年3月 尖岳にて
 
2009年03月23日10時44分
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晴れて「高齢者」の弁

北海道新聞社代表取締役社長 菊池育夫(1期)
 
 高校時代といえば、人物も風景もすっかりセピア色の世界になっている。それもそのはず、この夏には65回目の誕生日を迎えるのだ。65歳。国連世界保健機関(WHO)の定義による地球規模での「高齢者」である。孫娘にはとっくに「じーじ」と呼ばれているから新鮮味には欠けるが、函館ラ・サールの卒業生がとうとうこの年齢に達したかと思うと、また別の感慨も湧く。そんなに大げさな話ではないにしても、学校の歴史にまた新たな1頁ぐらいに考えてくれると、馬齢を重ねてきた1期生にとっては大変ありがたい。
 この節目にセピア色の中身を思い出そうとするのだが、それほど鮮明にはよみがえってこない。ほどほどに笑わせる失敗談はあるのだが、何かの雑誌に書いてしまったし、再掲するのは元記者の名がすたる。かなり老化も進んでいるから、ここはひとつ現地を再訪するか、当時の悪友たちに会って脳を刺激するしかないのかもしれない。しかし、昔の面影のまったくない景色に呆然としたり、これがあの男かという立ち居振る舞いにたじろいだりすると、逆効果になってしまう恐れもある。セピア色の世界は、そのままの姿でそっとしておきたいのだ。
 とはいえ、先輩のいない1期生のせいもあるが、あのころはおおらかにのびのびと過ごしたという印象は強烈に残っている。周りにほとんど人家もなかったから牧歌的な雰囲気も漂っていた。「こら、カーテンで手を拭くな」と実験室で化学の教師に怒鳴られたり、「この生徒は授業中にいつも別の本を読んでいる」と英会話の神父さんから校長室に突き出されたり、ずいぶん叱られた記憶(ばかり)があるが、当時の校風はそんなことぐらいは包み込んでしまう懐の深さがあった。いま思い出してもあまり違和感はない。
 そんな創成期の自由闊達さをベースに、後輩たちが時代に即した要素を加えながら素晴らしい校風を築いてくれたのだろう。卒業生の活躍ぶりを見聞する度にその思いを強くしている。信念と論理に忠実に市民社会の常識を貫く裁判官がいるし、ふるさと再興に独創的、献身的に取り組む市長もいる。新進気鋭の国会議員はこれからが楽しみだし、鋭い分析を分かりやすく述べて注目度の高い学者もいる。本とは何か、本を売る営みとは何かを追求しながら社会のゆがみに挑む書店主もいる。俳優、ミュージシャン、画家といった文化人、医師も多い。自分で企業を起こすたくましい経済人もいる。層の厚さを感じさせて誠に心強い。「高齢者」から一段ランクがあがって「後期高齢者」になるころには、もっと多様な広がりと奥行きを見せて、ノーベル賞受賞者が出ているかもしれない?!
 函館市長選挙で見せた同窓生の組織力にも舌を巻いた。いまは無党派層が増えて票が読みにくいから、各陣営の選対もマスコミも世論調査に頼ってしまう。仲間を支援する同窓生軍団がその流れを一蹴してみせたのだ。世論調査では直前でも当時の現職有利だったのに、有権者を粘り強く説得する草の根運動で票読みを重ね、投票日前日にすでにVサインを出していたのだから恐れ入る。これは選挙の原点に返るという意味で大変な教訓を残した画期的な行動だったと思う。
 さて、これから先は本業絡みの話である。本や新聞を読まない人が増えている。これは本当に困ったことだと思っている。経営上も困るが、それを超えた懸念がある。情報を得る手段が多様化するのはそれ自体結構なことだが、手軽に入手できる細切れの情報だけで、あるいはウェブの世界で自分の好みの分野に没頭していて、果たして社会の出来事をきちんと把握できるだろうか。不特定多数の人々が共通の情報基盤を持たないと社会生活そのものが崩壊しかねない。
 そればかりではない。文字を記号代わりに短文のやりとりしかしていないと、まともな文章を10行も読めば頭が痛くなるのだという。これでは物を考える忍耐力も身につかず、すぐキレることになる。文字活字文化の衰退は人間の思考力をも奪ってしまう。深刻な問題だと思う。
 いま新聞界と出版界、そして読書好きの経済人が結束して、文字活字文化の復権に取り組んでいる。書物や新聞、すなわちある程度のボリュームのある文章を、時間をかけて読みこなしていくことで、人間の思考回路は鍛えられる。物事を論理的に捉え、自らの判断を導き出していく訓練にもなる。ラ・サール同窓生のみなさんも、この趣旨に賛同して大いに読みまくってほしい。そして、あの選挙でみせた組織力でこの訴えをあちこちに広げてくれたらと、心から期待している。

 
北海道新聞社代表取締役社長 菊池育夫(1期)
 
2009年03月06日15時57分
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開校前後の思い出

元教諭 遊佐悦大
 
〈初めて校歌を聞いた時〉
 同窓会の関係者からの求めに応じ、拙文を綴らなければならなくなりました。
 函館ラ・サール高校開校前後のことなら、私だけの体験と言えるものがありますから、それらの幾つかを話す義務があるのだと考え、筆を運ぶこととします。大勢の方がご自分の体験談を残して下されば、時代毎の全体像らしきものが、朧げにでもご想像の一助となる事を願っております。
 私が「ラ・サール会」という修道会名を知ったのは、20歳前後のころでした。人家も疎らで、辺りは草茫々、雨のあとは田圃と見まがう土地に宮前町教会でポツンと建っていて、ドミニコ会の神父さんがおられたことと、その教会の古老の方から、「ラ・サール会」が、一時ここにあったということを聞かされた思い出があります。洗礼も受けていなかった当時の私には、ラ・サールそのものが何なのか、「ハァ…」と生返事を返したものでした。昭和23、4年頃の話です。それから10年後の真夏の昼下がりに、私にどうゆう運命が働いたものか、東京は代々木上原の高台にある、超上流の由緒あるお方の大邸宅のベルを押していました。函館の香雪園を皆さんは覚えておいででしょうが、あれの縮小版のような、絶句するような庭園の敷石を歩いていました。新宿界隈が眼下に展開する見事なパノラマに驚きつつ瀟洒な建物に近づいた時、大きなラブラドールがジロリと、私の人物鑑定でもするかのように睨みつけ、低音で格調高い唸り声をあげたものでしたが、どうやら犬試験官の面接試験にパスした気分でした。ベルの音は奥深い部屋に通じたようで、やがて現れたメイドさんらしき女性に封筒を渡し、「ローレント先生おられますか」と言ったものです。思い出すと顔から火が噴き出る思いです。無知、蒙昧、穴倉のモグラのようなものでしたね。番犬がイミグレーションの許可判断に逡巡したのも当然でしょう。やがてローラン先生がにこやかな表情で現れましたが、随分面長のお方だった印象が強烈でした。
 ラッキョを逆さにしたような特徴は、初代校長となられたあとも、親しみと尊敬の心をいや増すよすがとなりました。お茶を一服喫した後、こちらの部屋にくるような手招きに応じたら、そこにはオルガンがあり、「これが校歌です」と弾いてくれました。その時作詞者の安藤元雄さんの説明もなさったのでしたが、記憶にあるのは仙台ご出身の方というだけです。
 後でローラン先生は有名な音楽家だったと知らされましたが、そのかつての名声は封印されたまま、在職中は秘しておられました。謙遜なご人格に徹しておられたのでした。
〈入学試験に関連して〉
 最初の入試ですから、学校はPRに力を注ぎました。また10年先輩の鹿児島校の進学実績を利用させてもらえたことは有り難い事で、初めから好意溢れた善意に包まれてスタートできたことは感謝の言葉もない程でした。開校にともなう準備の中でも、役所などに届ける書類の多さにもびっくりしました。旧校舎の事務室が開校事務局となり、Br.ロムアルド(水上留次郎先生のこと)が局長となり、私と二本松さんがその指示に従って仕事にかかったのが昭和35年の年明け早々からでしたが、木の香とペンキの匂いの残っている新校舎を見学したいと言う来客の対応も引っ切りなしで、落ち着いて仕事をするのも大変だったですね。校舎は地震に備えて、と言うことで、中央廊下から放射状になっていたのが珍しい設計で、「日本人にはこんな設計は考えられない」と、妙なところが感心されたり、「設計者に会わせてほしい」(*Br、マルセル・クーリッシュさんのこと)とかありましたが、後日、網走刑務所の旧舎(刑務所博物館)を見て、LSと同じだわいと、妙な親近感をもったものでした。入試では799名の受験者の為に、白百合校、時間講師に内定の方まで協力していただいて、採点し、翌日の正午に合格発表をしたのがえらく感心されたりと、あのときの雰囲気は忘れることはできません。今日のような事務機器の発達があれば手間ひまの省力化ができたでしょうが、完全に手仕事だったのも思い出です。1回生の入試問題は函館少年刑務所で印刷されましたが、校正で刑務所通いをしました。翌年からは校内で印刷することになり、謄写版印刷という方法で問題作成をしたのでした。若い先生がたには「謄写版?」とかガリ版というと、それは如何なるものかと、石器時代につながるようなものに違いあるまい!と断定されそうですね。それから面接も3段階評価にして合格者の決定となり、164人が記念すべき第1回生となり、愛校精神に溢れた人材となって今日に至っております。すべては手探りで進行している時代というハンディーの中で、よく頑張ってくれたものです。
〈合格者の勧誘〉
 生徒が確実に入学してくれなければ、学校設立の意味もないわけで、次ぎの仕事は合格者の家を一軒ずつ訪問し、「是非新校舎で、外人さんが大勢いるLSで、国際的な教育を受けて下さい」と、2人づつのペアをつくり、木古内や上磯辺りまで出掛けたのでしたがローラン校長さん、アドリアン副校長さん、プティー理事長さん、レナード先生、石井先生などの訪問は絶大な効果があったようです。この時代には、外国人を街で見かけることは珍しい現象ではなくなっていましたが、今ほど多くはありませんでしたし、ましてや個人宅に訪れるというのはどこでもニュースになったようでした。家庭教育がしっかりしているお陰で、生徒の品位はかなりの評判の材料になったのでした。寮のない時代でしたから、ほぼ全員が自宅通学でした。通学手段としては市電、バス利用が大半でした。制服姿が凛々しく、帽子の蛇腹に、学年を示す1本線(*2年は2本線、3年は3本線)があり、寸暇を惜しんで車内で読書する姿は感動をよんだものでした。この1回生の評価が、優秀な2回生へ、それがさらに3回生へ繋がりと言う具合に、いつしか伝統がつくられたのでした。私にはどの職員の方も、ブラザーさんと同様に立派な方々で、学ぶことの多い職場でりありました。
〈カルチャーショック〉
 祈りを土台として、善意の塊のようなブラザーさんだけに、この世離れの面もありましたが、それを2つ取り上げて見たくなりました。その一つは給料の遅れた事です。開校事務にあたっていたのは、私と二本松さんの2人なので、ブラザーさんもついうっかりしたもののようで、月末にはサラリーが支払われるものと期待していたのに、1月は無給でした。わが家の財布は底を衝いたのですが、どうもサラリーのサの雰囲気もありませんでした。2月に入り、上旬も過ぎ、依然として音無しの構えで、私も焦りました。中旬も下旬もパーでした。つまり2ヶ月も給料が出なかったので、困りました。一言「給料はいつ出るのですか」と聞けばいいものを、それが言い出しにくくて、言いませんでした。親から借金してなんとかしのいでいたわけです。かくして3月にはいった上旬か中頃か、夜分にブラザー水上先生の訪問があり、「アドリアンさんが忘れていて、大変に済まないことをしました」と謝られ、溯って支払いを受けた時には、当たり前といえば当たり前なのですが、嬉しかったですね。
 学校が正式に授業にはいり、最初の俸給日となり、授業の終わった職員から校長室にはいったのですが、これ以上この世に嬉しいことがないという表情でローラン校長が待っておられました。「はい××先生、どうぞ。与えるものは幸いです」とやったものですから、一寸まずい雰囲気になったことがありました。聖書からの引用と分からぬ方にはカチンときてしまったのでしょう。もう一つは「お幾ら?」があります。これはカナダではポピュラーなジョークのようですが、何かを善意でしてあげたときなど「おいくら?」とくるのでした。私は慣れていたので「金1トンです」と言えばそれでお互いに笑って、一件落着となるのでしたが、しかし、これは日本人にはなじみにくいものです。かなり昔、1回生の菅野剛造さんが、オーラス校長に何かしてあげた後、クルリと回れ右をしたとき「おい、こら」と言われてびっくりしたら、「おいくら」の聞き違いだった事を回想記に載せていたことがあったのですが、親しい仲だからいいようなものの、そうでない時のことは互いに慎重に、かなりのゆとりをもって対応するように心掛けるべきが人生じゃ、ということになるのでありましょう。
 思い出は沢山ありますが、同僚のことに触れると、触れ損なう方がでてきたりしますから、ブラザーさんのことだけに触れました。この厳しい世の中で、善意を身に纏って生きている方々のお陰で、余命いくばくもなく「おくられびと」となる私は、感謝とお詫びを反復しながら、皆さんとお別れしますが、どうか、ブラザーさんを善意で支えてあげてくださればと心から願うものです。また、ファミリースピリットはこちらが放棄しないかぎり、ブラザーさんから放棄されることのない宝だと肝に銘じてください。
 あの世では、生きていたときになし得なかった事、償わなければならなかったこと、やり残していたことなどで、毎日は、かなり多忙になりそうですが、感謝をもって回想できるラ・サール会に関係するすべてに、今度こそは沢山々々祈りの慈雨を送り続けることを約束致します。卒業生の皆さん、平安のうちに輝かしい日差しの中を賢明に歩み続けてください。

 
撮影/管理人島本
 
特別養護老人ホーム「旭ヶ岡の家」でボランティアの薪割りをして一息。
 
2009年03月06日15時57分
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申八北米訪問使節団報告

とおやま酒店店主 遠山雅士(8期)
 
 それは誰かの言った一言から始まった。
 「そうちゃん*1がニューヨークにいるうちに一度みんなで訪ねてみないか」
 昨年の1月、札幌で開いた同期会の四次会、ホテルのtotoking*2の部屋に集まった6人の話である。実は三次会で大騒ぎをしているところにニューヨークのそうちゃんから電話がかかってきたのだ。「遊びに来いよ」「オウ、行く行く」そんなやり取りがあった。
 「ところでニューヨークまでいくら掛かるのよorzの魔法使い*3」誰かが聞いた。
 「2月だと3万円だ。一番安い。お盆と年末が一番高くて15万ぐらいかな」
 「そうちゃんの家にはベッドが4つとバストイレが2つあるらしいぜ。宿泊代はそれでクリアだべ。後は時間があればいけないことないか。みどりちゃん*4に聞いてみようかな」といわた書店*4’、「俺は仕事があるから無理かな、でも行きたいなあ」とゆういち*5と電車おじさん*6が答えた。「俺も仕事次第でどうなるかわからんな」ととらにゃん*7、「あ、俺は無理無理。店があるから」とtotoking。
 「いや、行こうという気持ちが大事だよ。行けば何とかなるもんだ。」とorzの魔法使いが言った。世界43カ国を訪ねた実績を持つ彼の言葉は妙に説得力がある。50代も半ばを過ぎた酔っ払いのオヤジたちのはかない夢に思えたその与太話は半年後にはからずも実現することになる。実現のきっかけはみどりちゃんの内助の功であった。みなに先駆けていわた書店はみどりちゃんに渡航話を切り出したところ、今までいただいた原稿料を貯金してあるからそれで行ってたらとの返事。部屋で一人になって思わずガッツポーズが出たらしい。これで一気に皆がNYに行く気になった。その功績は大きい。
 もうひとつの要素として、この話はMIXIを抜きに語ることは出来ない。2006年9月に8期の仲間を集め、函館ラ・サール高校8期同期会のコミュニティが立ち上がった。略して「申八コミュ」。http://mixi.jp/view_community.pl?id=1280009
当初はいつまで続くかと思われたのだが、3年目を迎えた現在、同期生350人中50数名が参加している。トピックの書き込み数が6,000を越すものを筆頭に4,000、5,000の書き込みがあるものも複数あり、その活発さが伺える。メンバーの中には日本全国はもとより遠く海外で活躍しているものも少なからずいる。ニューヨークのそうちゃんをはじめとして、モントリオール在住のたき*8、モーリタニ ア、ヌアディブ在住のHide*9、インドで出家をしているNaka*10などがそうだ。「申八コミュ」は時間とともにただの同期生の連絡ツールではなくなってきた。この旅行は言うに及ばず、このコミュの中から中古の広辞苑を日本語を学んでいる留学生や外国の学生に寄贈したり、モーリタニアの学校に文房 具や古着のプレゼントをしたりする活動が生まれた。さらに熱心に参加しているメンバーに嵐を呼ぶ男*11と言う歌人がいて、同じく俳句をたしなむたきとともに皆を指導してくれて、歌会や句会を毎月開いて楽しんでいる。http://www5f.biglobe.ne.jp/~yas007frommunakata/kadanhaidanindex.htmこのようにメンバーはこのツールを使い、卒業後38年の時空を超えていまなお友情の構築をしているのだ。50代のオヤジ達がMIXIをうまく使っている例としては他にないのではと思う。
 話を元に戻そう。夢を語った6人のうちどうしても仕事の都合で参加のかなわなかった電車おじさんを除き、紆余曲折の末に5人のオヤジが6月6日にニューヨークに向けて旅立った。他にも都合さえつけば行きたかった仲間がいたことは言うまでもない。成田に集まった5人はまるで修学旅行の学生そのものの興奮ぶり、それがこのあと11日間も毎日続いたのだから、今考えても息災無事で帰れたことは天の思し召しであろう。この旅行の計画を立てるうちに、モントリオールのたきにも会いたい、じゃあ近くに住むラクロア先生やプティ先生、アドリアン先生にも会えるんじゃないかということになり、たきに連絡をお願いした。せっかくだからナイアガラにも行こうと話はどんどんふくらみ、NY、ナイアガラ、 モントリオールを結ぶ一辺700km計2,100kmのドライブも体験することになった。 
 NYについた日の夜などは早速それまでの旅の画像をアップして、一緒に来ることが出来なかったMIXI仲間に報告した。翌朝のNY からモントリオールまでのドライブはそれはそれはにぎやかであった。57歳のオヤジどもが見る物すべてに興奮しっぱなしなのだ。天候にも恵まれ、6月としては暑いぐらいの30度近い気温の中モントリオールに到着した。セントローレンス川に面したたき宅の庭で38年ぶりの旧交を温めていたそのとき、一陣の風とともに漆黒の雲が川の向こうに湧き上がり突然大粒の雨が降り注いだ。空を見るとその雲の合間に見える太陽はまるで何かに怒っている者の目のように見えので、誰ともなくこれは来たくても来ることの出来なかった嵐を呼ぶ男の怨念ではないかと言う話になった。そのにわか雨も程なくやみ、たきの奥様手ずからの料理とワインをいただき、高校時代の思い出話とともにモントリオールの第一夜は更けていった。
 さて、ラクロア先生と対面の当日はやってきた。ラ・サール会のホームにお住まいの先生は少しお年を召されたかなと言う風情であったが、なつかしいあのやさしい笑顔は健在で僕達を迎えてくれた。僕達が在学しているとき先生は30代だったことになる。もっと年上だった印象があるのだが、先生のお話を逆算すると卒業してからの時間と今の先生のお年からではそういうことなのだ。ただ8期といっても先生はぴんと来ない様子だったが、たきがいわた書店を「ムッシュ学園紛争」と紹介すると「おお!学園紛争!!」と当時の記憶がよみがえったようで、それから話が弾んだ。いわた書店が代表して「68年~70年に函館ラ・サールの生徒であった事は僕らにとってとても幸運で貴重な体験でありました。当時の大場.・遊佐・野元各先生をはじめとする先生方が皆真摯に向き合ってくれた事を忘れる事ができません。あの時の経験がその後の人生を生きる為の精神的な支えになり、そうして今、僕らはここに居るのです。」とメッセージを伝えた。38年前の対立はここに氷解し、新たな一歩が記されたのだった。ぜひまた函館に遊びに来てくださいというと、先生はバイクで 転んで痛めたという足を見せて、行きたいけど無理だろうとおっしゃった。小一時間の話の後われわれはいとますることにしてお別れを告げた。先生は痛む足を 引きずりながら玄関まで見送りに出てくださった。それぞれの思いが胸を走る。もうお会いすることもないのかと思うと急に胸が締め付けられ、こみ上げてくる ものを抑え切れなかった。心残りはプティ先生、アドリアン先生にお会いできなかったこと、と言うのもアドリアン先生は既に鬼籍に入られ、プティ先生は折悪しくお留守だったのだ。今は、お世話になった先生方の豊かな余生をお祈りするばかりだ。(その様子はこちらからhttp://www.youtube.com/watch?v=0mj1gtAEk1c&feature=related
 この旅の終盤でもうひとつうれしいことがあった。それはモーリタニアに赴任する途中のHideとNYで待ち合わせ38年ぶりの再会を果たしたことだ。その夜、その昔ギャングが店の前で撃ち殺されたと言う伝統?のあるステーキハウスで、みなでわいわいと語り合いながらワインとステーキに舌鼓をうったのも思い出深い。翌日、彼は雷雨に見舞われたNYケネディ空港からアフリカに向けて飛び立った。彼はわざわざみんなに会うために一日を費やしてNYに降り立ったのだ。そのエネルギーたるやいかばかりか。さすがアフリカ生活15年の男であると一同そのバイタリティにすっかり感心させられたものだ。卒業してなお、38年がたってこんな体験が出来るのもわがラ・サール高校だからに他ならない。今度はヨーロッパかアジアかはたまたHideのいるアフリカか、オヤジどもの夢は続く。
 註( ここでは登場人物にMIXIのハンドルネームを使った。本名は脚注の通り)
 *1:森田壮平君(三井化学USA社長、2009年3月限りにて帰朝)
 *2:遠山雅士(筆者 とおやま酒店店主)
 *3:沖田好正君(沖田電子技研代表)
 *4:岩田みどりさん(岩田徹氏の妻)
 *4’:岩田徹君(いわた書店店主)
 *5:坂本祐一君(室蘭市立病院勤務)
 *6:山崎康弘君(栗山町松原産業勤務)
 *7:大野英士君(苫小牧商工会議所勤務)
 *8:金谷武洋君(モントリオール大学日本語科科長)
 *9:岡村英之君(システム科学コンサルタンツ(株)勤務モーリタニア在住)
 *10:中里行深師(日本山妙法寺インド在住)
 *11:新谷恭明君(教育学者、九州大学教授)

 
ラクロア先生とともに
 
玄関まで見送りに出てくださったラクロア先生
 
2009年03月06日15時56分
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辻秀明さん(5期)がカンボジアで奉仕活動

管理人 島本
 
辻秀明さん(5期)のカンボジアでの奉仕活動が北海道新聞(2009/03/03)に掲載されました。 写真と共に報道用資料をご紹介します。


「安くていい家をつくる会 来夢(らいむ)ハウス辻木材株式会社がカンボジアに学校を寄贈」
~世界の恵まれない子供達に「幸せのおすそ分け」を~

 笑顔や笑い声が絶えない幸せな家庭、子供をのびのびと育て教育もしっかり出来る・・・ そんな子育て世代の家族こそ住まいを必要としています。
 「だからこそ若い家族が安心して建てられる「安くていい家」を提供するのが我々の使命である。」
 来夢(らいむ)ハウス辻木材㈱の辻 秀明社長は常々言って来ましたが、「子育て世代を応援する」という理念に沿ってこの度カンボジアの子供達の為に学校を寄贈しました。
 ポルポト政権の大粛清の傷跡がいまだに癒えないカンボジアでは子供の数に対して圧倒的に学校が足りず、校舎を建てる費用も無いのが現実だと言う。
 何故学校?という問いかけに「お金や食料はもちろん大切ですが、長い目で見てその国を将来背負っていく子供たちの教育が何よりも大切だと思ったからです。
 そして私たちは建設業者ですから建築物で貢献出来ればと思ったからです。
 もちろん私たちが材料と手間をもって施工するのには遠すぎる為、現地で活躍しているNPOのJHP・学校をつくる会を通じてお願いすることにしました。」
 私たちは約4年前に立ち上げた来夢ハウスの第一棟目をお引き渡した時から、お施主様の住まいの引越しが無事に終わるたびに「幸せのおすそ分け」という名前で1棟に付き5,000円の貯金をしてきました。今回はその預金を基にして志を同じくする全国の「安くていい家をつくる会」の仲間とも協力して行った仕事なのです。
 「人生の夢である「家づくり」を出来るお施主様は幸せ、そしてお施主様の喜ぶ顔が見られる私たちはもっと幸せです。
 この「幸せのおすそ分け」を恵まれない方々の為に使おうと考え積み立ててきました。家のオーナーであるお施主様も自分達の家づくりが世界の恵まれない人たちに役に立っていることをきっと誇りに思ってくださるはずです。今後もいろいろな形での貢献に役立って行きたい」と辻社長は語っています。
 南国の熱い陽射しの中で子供達の本当にうれしそうな笑顔は格別なものでした。言葉は判らなくても目と目で感じられる幸せ、まさに「心に太陽を!」でした。

 

 

 
2009年03月06日15時55分
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